「靖国 YASUKUNI」

たとえ今日がエイプリルフールでなくても昨今の新聞など信用ならないので、うかつにもArisanさんの記事(http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080331/p1)を読むまで知らなかった。
ボーガスニュースもまだのようなので読売の記事を引く。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080331-00000065-yom-soci

中合作の記録映画「靖国」、相次ぎ上映中止に
3月31日21時28分配信 読売新聞

 靖国神社をテーマにした日中合作のドキュメンタリー映画靖国 YASUKUNI」が、東京と大阪の映画館5館で上映中止となったと、映画を配給するナインエンタテインメント社が31日発表した。

 中止を決めたのは東京都内の銀座シネパトス、渋谷Q−AXシネマ、新宿バルト9、シネマート六本木の4館と大阪府内のシネマート心斎橋。いずれも今月12日から公開を予定していた。「公開によって、近隣の劇場や商業施設などに迷惑が及ぶ可能性がある」(銀座シネパトス)などと理由を説明している。

 この映画は文化庁所管の芸術文化振興基金750万円の助成を受けており、「政治的な宣伝意図があるのではないか」などとして、国会議員から問題視する声もあった。「映画を見たい」という議員の要請もあって配給会社は3月12日、都内で試写会を開き、議員約40人が参加。議員と文化庁関係者らの意見交換会が開かれ、参院文教科学委員会でも質疑が行われた。

 19日に新宿バルト9が公開中止を決定。その後、他の映画館や配給会社に上映中止を求める電話などがあったという。

 19年間日本に住む中国人の李纓(りいん)監督が、10年間にわたって、靖国神社を訪れる参拝者や遺族、神社に納める刀を作る刀匠らの姿などを記録した日中合作映画。昨年の釜山国際映画祭など海外の映画祭でも上映され、今年3月の香港国際映画祭では最優秀ドキュメンタリー賞を受賞した。

一瞬、エイプリルフールかと思ったが、どうやら事実らしい。
読売の記事は正確だろうが、抜け落ちているところがある。
「政治的な宣伝意図があるのではないか」などとして問題視したうえに「映画を見たい」と要請して、映画を只見した国会議員とは、かつて「徴農」を提唱した稲田議員である。
実は朝日新聞にはこの件の張本人、稲田議員のコメントが載せられてていた(ネット上では確認できず)。

日本は表現活動の自由も政治活動の自由も守られている国。一部政治家が映画の内容を批判して上映をやめさせるようなことは許されてはいけない。今回、私たちの勉強会は、公的な助成金が妥当かどうかの1点に絞って問題にしてきたので、上映中止という結果になるのは残念。私の考え方とは全然違う作品だが、力作で、私自身も引き込まれ最後まで見た

まことにごもっともで、ケチのつけようがない。
ケチをつけるとしたら、本当に表現の自由を大切に思っているのなら、国会議員による試写会を実現した行動力をもって、上映を実現するよう働きかけてほしいというところか。
意見の違う人にも飽きさせずに最後まで見させるというのは、なかなか優れた作品である証拠だ。
私はこれまでこの映画にたいした関心ももっていなかったが、「力作」と聞けば俄然、観たくなった。そんなに面白い映画なら、国会議員たちだけ見て、一般庶民には鑑賞させないというのはずるいじゃないか。
もっとも、稲田氏は映画を上映するなとは言っていない、映画館が勝手に自粛しただけなのだ、それはそうなのだ。
言論統制というのはこういうものである。戦前もそうだったのだ(『言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家 (中公新書)』など参照)。
ところで、朝日の記事にも大事なところがスッポリ抜け落ちていることを、good2ndさんの記事で知った。
http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20080331/1206980231
good2ndさんが引いている河北新報の記事によれば、稲田議員は、

「国会議員の立場で試写を求めたことが、上映中止の波及効果を招いたとは思わないのか」「助成金のささいな問題を取り上げることで、間接的に作品を批判しているのではないか」などの質問に対し、稲田議員は「表現の自由を持ち出し大事にしたのは別の勢力だ」と反論した。

のだそうだ。
これはgood2ndさんのおっしゃるように責任転嫁であり、「自身の身分で行う行動が持つ意味について信じられないくらい無神経」である。
それどころか、「表現の自由を持ち出し大事に」してはいけない、大事になったらこういうことにもなるのですよ、と示唆してさえいる。
ちなみに毎日新聞によれば渡海文科大臣は「嫌がらせや何らかの圧力により、結果的に作品発表の機会が失われたことは大変残念。表現の自由や制作者の活動に、何らかの制約が加わらないか危惧(きぐ)している」と述べたのだそうだが、圧力をかけたのは、−正確を期せば−、間接的な手段によってホラこれが圧力をかける対象だよとサインを送ったのは、稲田議員である。

その無難さに難はないのか

  • 反戦チラシのポスト投函に、住居不法侵入罪が適用された一件。
  • 日教組大会への会場貸し出しをプリンスホテルがキャンセルした一件。
  • 来日が予定されていたネグリ氏の入国が拒否された一件。
  • そして今回の一件。

他にもあったかもしれないが、これくらいで十分だろう。
どれも、言論・表現の自由が直接に制限されたわけではない。
けれども、結果として、この国で言論・表現の自由を行使しようとすると、何らかの制約がかかることを示している。
我が国にはゲシュタポもゲー・ペー・ウーも(いまや特高も)必要ないのだ。
私は、反戦チラシを配ったこともなければ、日教組の組合員でもなく(教員じゃないし)、ネグリ氏の講演を聴きに行こうとも思わず、映画「靖国 YASUKUNI」も観に行こうとも思っていなかった。
だから、私個人については、これら一連の事件によって何か困ったということはない。私にはこれらの事件について利害関係はない。
一連の事件の一つひとつには、私は利害関係をもたないが、それら一連の事件を容認する風潮には無関係ではいられない。ある特定の人たちの想定する「善」と対立する言論・表現は制約されても当然とする態度には断固として反対するし、言論・表現の自由は無難な日常(安全・安心)よりも優先順位が低いとする価値観についても懐疑的である。
もちろん、平凡で貧しい自営業者にすぎない私としても、無難な日常がいかに有り難いものであるかは骨身に染みて知っている。
前衛的な表現活動をする芸術家にだって日常生活はある。日々の暮らしが、常に危険と不安に満ちていることを望み続けられる人はそう多くはいないだろう。
この逆も言える、ということはない。生あっての表現であり、その逆は不可である。だから、無難な日常のありがたさに比べれば、言論・表現の自由は優先度が低いと考える人がいたとしてもおかしくはない。
繰り返すが、私だって、妻に小言をいわれながらささやかな仕事をし、貧しくとも平穏な夕餉の食卓を整えられる毎日が、つつがなく続くことを願わずにはいられない。そのために日々努力をしている。
それでも、もし無難な日常と引き替えに言論・表現の自由など手放せると割り切ってしまったなら、私が必死にしがみついているこの無難な日常というものも、どこか変質してくるのではないだろうか。
はたして、言論・表現の自由を手放して得られる無難さというものは、いま私が大切にしているこの日常と同じものであろうか。