親の死を願う

Apemanさんが次のような言葉を紹介しておられる。http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080815/p1

 戦後、とりわけバブル景気華やかだったころ、数多くの戦友会によって頻繁に行われた慰霊祭の祭文に不思議に共通していた言葉がありました。
「あなた方の尊い犠牲の上に、今日の経済的繁栄があります。どうか安らかにお眠りください。」
 飢え死にした兵士たちのどこに、経済的繁栄を築く要因があったのでしょうか。怒り狂った死者たちの叫び声が、聞こえて来るようです。そんな理由付けは、生き残った者を慰める役割を果たしても、反省へはつながりません。逆に正当化に資するだけです。実際、そうなってしまいました。

「バブル景気華やかだったころ」というと、私にはついこの間のように思われるが、もう二十年以上昔のことである。
80年代当時、学生だった私は、大先輩から六十年安保の頃のことを聞かされて、ずいぶんと昔だなあ、と思った記憶がある。わずか二十年でこれだから、六十年以上も前のこととなれば、もう歴史上のこととして語ってもよいのではないかと思い、[歴史]という分類にして思い出話を書き留める。

「親に殺意」

こんな記事があった。
「「親に殺意」高校生の3割経験 大阪大調査」http://sankei.jp.msn.com/life/education/080810/edc0808102229001-n1.htm

 高校生と大学・専門学校生の約3割が親や友人に対して殺意を抱いた経験を持つことが、大阪大大学院人間科学研究科の藤田綾子教授らの調査で分かった。殺意を抱いた経験がある若者は倫理観や規範意識が低く、殺人行為に同調しやすい傾向があることも判明した。若者の「心の闇」を殺意の観点から探った初の調査で、9月に札幌市で開かれる日本心理学会で発表する。
 調査は国立精神・神経センター精神保健研究所の赤沢正人研究員が、大阪大大学院在籍中の平成18年に実施。男女計900人に質問票を配布し、678人(平均年齢18.3歳)から有効回答を得た。
 「親に殺意を抱いたことがある」とする回答は高校生28%、大学・専門学校生35%。頻度はいずれも「1、2回」「ときどき」の順で多く、「よくあった」は全体の約3%だった。
 また、殺意を経験した回答者に親を殺害する行為についてどう思うか聞いたところ、「決して異常なことではない」「気持ちは理解できる」とする答えが、殺意の経験がないグループの回答を上回り、「人としてやってはいけない」「家族が悲しむ」などの感情は希薄だった。

 一方、友人に殺意を抱いたことがあるとの回答は高校生、大学生ともに33%で、親の場合と同様に殺人を容認する傾向があった。自殺を考えたことがある回答者は、親や友人に殺意を抱きやすいことも分かった。
 赤沢研究員は「本気で殺意を抱いた若者は、ごく少数の可能性があり、慎重な判断が必要」とした上で、「高頻度で殺意を抱く傾向が全体の3%にみられたことは気がかりだ。家庭や学校などでの生活背景を調べ、対策に生かしたい」と話している。

この記事は末尾にこそ専門家による「慎重な判断が必要」という発言を引いているが、冒頭では「殺意を抱いた経験がある若者は倫理観や規範意識が低く、殺人行為に同調しやすい傾向があることも判明」とか「心の闇」とか、不安感を煽るような言葉を並べている。いかにも恐るべきことのような筆致だが、そんなに驚くようなことだろうか。私には、もっと多いような気がしてならない。そもそも、「親に殺意を抱いたことがある」というのは、世間的には不道徳なこととみなされるだろうことは回答者のほとんどが自覚しているだろうから、この設問にYESと答えるのを回避した人も大勢いたのではないか。
「殺意を抱いた」というのを「死を願う」と言い換えたらどうなるか。確実にもっと多くなるだろう。
以下、私が父親に殺意を抱いたときの話である。

親の死を願う

正確な日付は忘れたが、祖父の亡くなった年なので年号は平成元年の夏だったはずだ。新聞に戦争の回顧記事が載るちょうど今ごろの話である。
当時、まだ親と同居していた私は、小さな台所で新聞を読んでいた父から敗戦の頃の思い出話を聞かされていた。早春のころに行われた葬儀で、祖父が出征していたことを初めて知ったので、ふと「戦争の時、お祖父ちゃんはどこへ行っていたの?」と尋ねた。戦前に祖父は関東のある町で旧制中学の教師をしていたと聞いていたから、兵隊に取られてはいなかったと私は思っていたのだった。
戦局の悪化とともに、既に壮年の教師であった祖父にも召集令状が来た。
近衛連隊に配属された祖父は、敗戦直前、中尉として隊を任され伊豆諸島のある島に派遣された。任務は本土防衛である。とは言え、大砲もなく弾薬も十分に持たされずに、祖父の部隊は離れ小島に置いていかれた。
命じられた作戦とは、海岸線に穴を掘り手榴弾を持って身をひそめ、米軍の戦車部隊が上陸してきたら敵もろとも自爆せよ、というものだったそうだ。祖父と部下たちは、自らの命を捨てる覚悟でせっせと穴を掘って敵の襲来を待ち受けた。
だが、米軍は祖父たちの待機する離れ小島などには目もくれなかった。敗戦後、無事に復員した祖父は「アメリカさんは俺たちの頭の上を飛行機で通り過ぎていったよ」と言ったそうだ。
私はその話を聞いて、兵士を捨て駒としか考えていない作戦に呆れながらも、優しかった祖父が戦争に駆り出されても、一人も殺さず、また殺されずに帰ってきたことに安堵した。
その時、父はこう言ったのだ。
「親父が帰ってきたとき、俺は情けないと思ったね。どうして名誉の戦死をしなかったのか、生きて帰ってくるなんて恥ずかしい、と言ってやったよ」
私は即座に、お前が死ね、馬鹿、と腹の中で罵った。口には出さなかったが、本気で思った。しばらくのあいだ、その怒りは尾を引いた。
今では、皇国少年として教育された父がそのように思ってしまったことも、共感はできないが理解はできる。少年だった父の感じた恥ずかしさとは、Apemanさんが引いた文章にある「尊い犠牲」と通じるものがあるように思う。父は、自分の親の死を願った、戦死を賛美する風潮のなかで予期に反して生き残ってしまった者のいだく疚しさがそうさせたのだろう。祖父が戦後、教職に戻らなかったのも、いくばくかはその疚しさを共有していたからなのかもしれない。
先日、お盆で一日だけ休みを取って帰省した折に、父は東条元首相の手記の記事を見ながら「子どもの頃は先生に教わったとおりに、この戦争はいいことなんだと思っていたけれど、上の方の人はずいぶんといい加減だったんだなあ」と呟いていた。あの手記のどこを読んでそう感じたのか、特に尋ねはしなかった。

追記

これは呆け中年の思い出話に過ぎず、だからどうだという結論があるわけではないけれども、私が父の死を願ったのは、父が自分の父親の死を願った思いに、単なる皇国少年の軽薄だけではなく、そうすれば名誉の戦死者の遺族になれたのに、というエゴイズムの臭いがしたからだ。なんと身勝手な、と思った。このエゴイズムと、戦死者を「尊い犠牲」とする気持ちには、どこか通ずるものがあるような気がする。
もっとも、そんな気がするだけで、それが何かはわからない。
そして、私が父にお前なんか死んでしまえと思った気持ちも、単に祖父を思う気持ちばかりではなく何らかのエゴイズムに根ざしてもいるのだろう。これもそれが何かわからないし、わかったからどうなるというものでもないような気がする。
一つ言えるのは、親子二代にわたって自分の父親の死を願った呪われた家系にしては、うちの家族は仲がいいということか。