中村雄二郎「西田幾多郎の場合〈ハイデガーとナチズム〉問題に思う」

先日書き付けた感想文http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20091122/1258893278について、最後の段落に事実誤認があり、追記によって訂正しました。コメント欄でid:kenkidoさんが「元の記事に記されたことを、根本的に改めるべくする程の意義は無いんじゃないかしら」と慰めてくださいましたが、元の記事の趣旨に変更の要はないとはいえ、自分の勇み足の始末は付けておかないと気持ちが悪いので、中村雄二郎先生のエッセイ「西田幾多郎の場合〈ハイデガーとナチズム〉問題に思う」(「現代思想」誌の1988年3月号「ファシズム」特集)について記しておきます。
このエッセイで中村は、ファリスの『ハイデガーとナチズム』だけではなく、カール・レーヴィットの回想やヘルベルト・マルクーゼとハイデガーの往復書簡などにも目を配りながら、ハイデガーナチス関与は単なるエピソードとして片づけられない問題であることを確認した上で、西田幾多郎の場合はどうであったかと問う。
中村は、「一九四三年に東条政府が「大東亜宣言」を出すに当たって、〈世界新秩序〉の理念の起草を西田に依頼したこと、それに西田が応え」、「世界新秩序の原理」の草稿(田辺寿利・金井章次がリライト)を執筆した経緯をたどり、結局それは「イデオロギーとしての日本の超国家主義に対してなんら積極的にコミットしたというようなものではなかったし、また、一概に軍部の脅迫や権力に屈したというものでもなかった」として、次のように結論する。

西田はむしろ、〈皇室〉〈国体〉〈国家〉〈大東亜共栄圏〉〈聖戦〉〈八紘一宇〉などといった、美化された分だけ空疎化した用語の内容を深め、変えていくことによって、憂うべき状態にある国家の道徳性・文化性を高めようとした。しかし、少なくとも社会的には、意図に反して、幻想を撒き散らす結果になった。つまり、現実の難点や欠陥を覆い隠して、新しく美化する働きをしてしまったのである。
したがって、西田の場合には、〈ハイデガーとナチズム〉問題におけるハイデガーの場合と違って、第二次大戦下の態度と言動がいまもしあらためて、詮索されるにしても、国家論や政治論の領域で弱点がいっそう露呈するだけで、彼の哲学全体が、また哲学そのものが根底から脅かされるようなことにはならない。

この西田評価については異論もありえると思うが、今は口を慎み、とりあえず、中村雄二郎が〈ハイデガーとナチズム〉問題について洞ヶ峠を決め込んだかのような詮索は撤回する。
このエッセイの最後を、中村は二つの問題を投げかけて締めくくっている。

その一つは、新著『精神について』でデリダが行なったことに関わる。すなわち、そこで彼は、ハイデガーの〈ガイスト〉論を通してナチズムの問題を執拗に追及し続けるというやり方をとっている。それと同じように、私たちは、西田の〈身体〉論を通して、文化的にして政治的な、天皇制の問題に迫るやり方がありそうだということである。(中略)
もう一つは、〈ハイデガーとナチズム〉問題にふれて、レヴィナスが提出した、人間と思想のなかに否応なしに食い込んでくる〈悪魔性〉の自覚化ということを、西田哲学についても押し進めることである。〈悪魔性〉の自覚化は、西田の哲学的宇宙のうちでは極めて希薄である。そのために彼の哲学は、宗教心に深く関わる悲哀をベースにした〈善の研究〉ではあっても、その考察をいわば〈悪の研究〉−−この方がより深く制度的現実に関わる−−にまで広げることが出来なかったのである。

この問題提起のうちの後者、「人間と思想のなかに否応なしに食い込んでくる〈悪魔性〉の自覚化」を中村なりに展開したのが、『悪の哲学ノート』ということになるのだろうと思う。