2009年・今年の10冊

今年は不景気のあおりで小遣いが乏しく、本の調達は古書店と図書館ばかりで、そんなに新刊書を読んでいない。小説をのぞけばせいぜい60冊程度である。だから客観的な基準があって言うわけでは当然ないのだが、これはと思う新刊に出会わなかったような気がする。
あくまで貧しい中年男が通勤電車の中で読んだもののうち印象に残った本、ということで、以下の9冊+αを列挙する。

1.ストリートの思想 転換期としての1990年代

ストリートの思想 転換期としての1990年代 (NHKブックス)

ストリートの思想 転換期としての1990年代 (NHKブックス)

 現在の若者文化のなかでは、大江健三郎に代表されるような岩波・朝日系知識人の影響はきわめて限定的になった。「その代わりに登場したのが、ミュージシャンやDJ、作家やアーティスト、あるいは匿名性の高い無数の運動を組織するオーガナイザー」だとして「こうした新しいタイプのオーガナイザー」を「伝統的な知識人」に対して「ストリートの思想家」と著者は名付ける。本書はこのストリートの思想家がどのように登場してきたかを叙述する,いわば現代の思想史といった趣向の一冊である。
 構成を示しておくと、序章「ストリートの思想」とは何か、第一章 前史としての80年代「社会の分断」とポストモダン、第二章 90年代の転換1知の再編成、第三章 90年代の転換2大学からストリートへ、第四章 ストリートを取り戻せ!ゼロ年代の政治運動、第五章 抵抗するフリーター世代 10年代に向けて、となっている。80年代に導入されたポストモダン思想が、90年代初頭のバブル崩壊を契機として日本輸入時に脱色されていた政治性を回復して花開き、イラク反戦、反貧困といった若者たちの抵抗運動に流れ込み、現在のロスジェネ論壇や年越し派遣村に象徴されるような政治文化の形成に至った、と、こういうストーリーは類書にも見られる。
だが、本書は次の点で類書にない特徴を持っている。バブル時代として類型的に描かれがちな80年代文化の政治性に着目し、自身の体験も交えて描き出したこと。著者自身が大学の研究室から論評するのではなく街頭に立つ知識人であったこと。そこから本書に登場する多くの「ストリートの思想家」たちと著者が面識のあること。つまり、本書はよく整理された現代の思想史であるとともに、ライブ感に満ちた現場報告なのである。

2.戦国仏教 中世社会と日蓮宗

戦国仏教―中世社会と日蓮宗 (中公新書)

戦国仏教―中世社会と日蓮宗 (中公新書)

 「戦国仏教」というタイトルも印象的だが、内容も冒頭から強烈だ。それまでの国家鎮護を旨としてきた奈良・平安仏教に対して、平安時代末から鎌倉時代にかけて法然親鸞栄西道元日蓮らが民衆救済の理念を掲げて新たな宗派を興し、以来、日本仏教の主流となった、これを鎌倉仏教という、とこれまで考えられてきた(少なくともそう教えられてきた)。現在でもたいていの日本史の本にはそう書かれているのではないだろうか。ところが本書によれば「しかし、現在、こうした「通説」を支持する日本中世史の研究者はほとんどいない」のだという。
 それでは日本中世の仏教の主流はなにかというと「顕密仏教」がそれに当たるという。「顕密仏教」という言葉は、中世史や宗教史の本で目にしていたのだが、そう名付けることの意義がいまひとつピンと来ていなかった。「かつては古代的といわれていた比叡山高野山などが、じつは中世的な変貌をなしとげ、莫大な荘園を擁する宗教勢力として社会に君臨」し「そのイデオロギーは民衆を呪縛し、貴族や僧侶、そして武士の支配を補完する役割を果たしていた」、これを現代の歴史学では「顕密仏教」と呼ぶのだそうだ。誕生して間もない鎌倉仏教は「社会における影響力を考えると、せいぜい顕密仏教の異端の一つにしかすぎない」。それでは鎌倉仏教がやがて広範な信者を獲得し、日本社会に確固とした地歩を占めるようになったのはどうしてか、という疑問が浮かぶ。それに応えるために執筆されたのが本書である。
 いわゆる鎌倉仏教が大衆の支持を獲得し顕密仏教や守護大名の権力に対抗しうる勢力となったのは応仁の乱の頃であり、その特色を言い表すのなら「戦国仏教」という言葉がふさわしい、と本書は提言する。そして鎌倉仏教の一つ日蓮宗を例にとって、顕密仏教から見れば異端であった宗教運動が地域社会に定着していく様子を史料を駆使して描き出す。

3.「幽霊屋敷」の文化史

「幽霊屋敷」の文化史 (講談社現代新書)

「幽霊屋敷」の文化史 (講談社現代新書)

 新書が続くのは気がひけるがいたしかたない。東京ディズニーランドのお化け屋敷「ホーンテッド・マンション」の秘密に建築史の専門家が挑んだ知的エンタテイメント。とはいっても、本物の幽霊が混じっている云々という都市伝説系の話ではなく、ホーンテッド・マンションに西洋流お化け屋敷の精髄が集大成されていると見た著者が、その魅力を最大限に引き出すべくその伝統を探るという趣向。おそらく日本人にはそう言った方がピンと来るだろうと思ったので「お化け屋敷」と書いたが、実は本書の副題にあるとおり、ホーンテッド・マンションとは幽霊に取り憑かれた邸宅、すなわち「幽霊屋敷」である。しかし、この幽霊が厄介だ。著者は、欧米で長くまた広く信仰されているキリスト教では幽霊は原理的に存在するはずがないものとされてきたことに読者の注意を促す。死後の霊魂は、この世をフラフラさまよっている余裕もなくすぐさま天国か地獄に送られるシステムになっていた。それにもかかわらず、欧米でも幽霊談が語られてきたのはなぜか、ということから始めて、本書の前半はシェイクスピアからゴシック文学へ至る幽霊物語の伝統をたどりなおす。
 西欧における幽霊のイメージを明らかにしたあと、本書の後半は、いよいよ見せ物としての恐怖の歴史を探る。それは意外にも光学技術や精巧な蝋人形といった技術革新に支えられた近代の産物であり、幻灯機を活用した怪奇ショー「ファンタスマゴリー」の仕掛け人と、ロンドンの有名な蝋人形館の創始者マダム・タッソーとが、ともにフランス革命期のパリで知り合い、やがて相次いで革命の動乱を避けてイギリスに渡り、現代のホーンテッド・マンションに通じるスペクタクルを作りあげたという数奇な逸話などは幽霊屋敷そのものよりも面白いかもしれない。
本書を読んでから、妻には内緒で浅草花屋敷のお化け屋敷に遊んだ(来年あたり閉鎖されるそうだ)。手作り感あふれる仕掛けを思う存分楽しんだ。ホーンテッド・マンションよりこちらの方が私には似合っているようだった。
ちなみに、古いつきあいの友人と一緒に行ったのだが、暗い迷路状の施設内で、ふと彼女の姿を見失った。思わず立ち止まったその時、後ろから肘に手を添えて「この先を右に」と言ってくれた女性が、てっきり同行の友人だと思ったのだが、彼女は先に進んで待っていてくれた。あれは誰だったのか、いまもってわからない。

4.日本人の知らない日本語

日本人の知らない日本語

日本人の知らない日本語

 外国人留学生向けの日本語学校教師を主役にイラストや4コママンガを効果的に使ったエッセイ。読み出すと止まらない面白さ。外国人の日本語についての勘違いをネタにして面白がるなんて…、と眉をひそめる方もあるかもしれないが、実は日本人も笑ってばかりはいられないのだ。本書に掲載されている4コママンガにこういうものがあった。いつも優秀な学生の提出した宿題に間違いがたくさんあった。気になった先生が「ずいぶん間違ってたけど何かあったの?」と声をかける。学生は「日本人の友達にやってもらったのに!」と愕然。先生「そいつをここに連れてこい」。おそらく実話であろう。
 たいていの日本人は、生まれたときから日本語が話される環境にいて、会話の基礎を自然と身につけている。けれども、この「自然」が曲者なのだ。自然とか当たり前とかいうのは、無反省ということでもある。ふだん使っている日本語表現について、なぜそう言うのか(そう言わないのか)、なぜその字をあてるのか、なぜそう読むのか、など、あらためて考えてみるとよくわからないことが多い。それどころか、調べてみると誤った理解をしていることもある。よく指摘されるのは敬語の誤用だろう。本書中でも日本人の敬語の誤用、とくに丁寧すぎる二重敬語や接客マニュアルのアルバイト敬語のおかしさが挙げられている。だが、敬語だけではない。「て・に・を・は」の使い方や、ものを数えるときに使う助数詞(匹、尾、頭、丁、台、本など)の用法、語源や文字の成り立ちなど、知らないと恥をかくだけではすまされない事柄が多々ある。本書には日本語教育能力検定試験の問題がいくつか掲載されている。すらすら解ける人がはたしてどれくらいいることだろう。

5.ダーウィンの思想 人間と動物のあいだ

ダーウィンの思想―人間と動物のあいだ (岩波新書)

ダーウィンの思想―人間と動物のあいだ (岩波新書)

 本書はダーウィンの思想と生涯をコンパクトにまとめ、生命倫理の課題にも踏み込んだ議論を展開している。第1章「ビーグル号の航海」では、後の生物学に甚大な影響を与えることになるダーウィンだが学問的出発は地質学から始まっていること、また進化論のヒントを得たとされることの多いガラパゴス島探検だが、実はうっかりして観察データを取り損ねていたことなど、門外漢には意外な事実が紹介される。しかし本書が俄然面白くなるのは第2章「結婚と自然淘汰説」からである。
 三十代を目前にしたダーウィンは結婚の損得勘定表をつくって花嫁探しを始めるが、優柔不断でこれはと思った女性にプロポーズができない。「不安を紛らわすためにまた仕事と研究に」戻り、マルサス人口論』を読んで自然淘汰説のヒントをつかむ。そしてプロポーズにも成功して生涯の伴侶エマを得る。これだけならエピソードにすぎないが、著者はエマが進化論者としてのダーウィンのスタンスを直観的に理解していたことに注意を促す。「ダーウィンは、「結婚の損得勘定表」を作るほどの分析的知性」「観察癖と生物学的な好奇心」の持ち主だが、信仰の篤いエマに自分の無神論的な信条を打ち明けてしまう正直者で「万事打算に走るような人物ではなく、人間的な誠実さと温かさも持ち合わせていた」と指摘する。第2章で妻エマの目を通して描かれたダーウィンの人間像は、本書最終章への伏線である。著者は主に『種の起源』に示された進化論の説明をした後、第6章で晩年の大著『人間の由来』を取り上げ、人間を他の生物と比べて特別なものと見なさない立場から道徳はいかに語ることができるか、というテーマに挑んでいる。

6.ヒューマニティーズ 教育学

教育学 (ヒューマニティーズ)

教育学 (ヒューマニティーズ)

本書には読んでいると、おやっ?と立ち止まりたくなるところがある。それは理路整然と教育学の問題点を解き明かす文章の合間に、著者のつぶやきのような言葉がはさまれているところである。といっても単なる脱線や失言のたぐいではない。思わずもれた本音のような味わいがあり、つい深読みしたくなる。
 第一章は教育についての居酒屋談義的な議論への批判、つまり素人が自らの狭い知見をもとに教育の全体を論じてしまうことの危うさへの指摘から始まるのだが、実際に居酒屋で「いやー、今の教育は××ですよねー」と話しかけられたらどうするか、と自問自答している。

私のように教育学の端くれで研究している者は困ってしまう。「実は私は教育学者です」と名乗って論争を始めるわけにはいかない。だが、だからといって、下手に「そうですねー」などといいかげんな相づちを打つのも気分が悪い。専門家としてなさけない気がする

一般読者向けの著作も何冊もある著者にしてこう言わせるのは、世間一般の教育への関心の高まりに反比例するように、現代の教育学が何をしているかは知られていないというジレンマのあらわれだろう。なお「シロウト教育論」の弊害については、なぜ、今の日本でそれがふくれあがり、教育学はなすすべもなかったかについても第四章で的確に指摘されている。
 一方で、学問のための学問のような閉ざされた態度にも「教育社会学のオタクっぽい概念や理論などを覚えたって,毎日の教室での授業で子どもたちに向かってそれを話せるわけでもない」と辛口だ(著者は教育社会学者である)。教育と学習の関係について、教育には学習が必要だが学習には必ずしも教育が必要なわけではないことを示す例として「インスタント・ラーメンの作り方を私が子どもに教えたわけでもないのに、うちの子どもたちは勝手に作り方を覚えて、夜中に食べている。そんなものだ」と言う。この「そんなものだ」という言い方に、教育万能論やその裏にある教育することへの強迫的な衝動に対する突き放した見方が感じ取れないだろうか。
 また、第三章で教育という営みは結果の予測が出来ない(不確定である)ことを「教育の悲劇性」と呼ぶことを紹介している箇所で「教育の不確定性を、上品な教育哲学者にならって〈教育の悲劇性〉と呼んでもよいけれども、もうちょっと明るく「教育のもつ吉本新喜劇的不条理」と呼んでもよいかもしれない」と言う。「悲劇性」とは「不確定性」のことであるならば、それでいいじゃないかと思われるのだが、そこで「吉本新喜劇的不条理」と言葉を重ねたくなるところに、批判と攻撃の応酬ばかりが目立つ教育の現状に、なんとか実践的で明るい展望を切り開きたいという著者のスタンスが垣間見える。

7.荘子

『荘子』―鶏となって時を告げよ (書物誕生―あたらしい古典入門)

『荘子』―鶏となって時を告げよ (書物誕生―あたらしい古典入門)

岩波が続くのはなんとも歯がゆいかぎりだがいたしかたない。道家老荘といった、老子の後継者としての荘子像を、『史記』のフィクションとして退け、『荘子』を単独の思想書として扱う。第一部では『荘子』の読まれ方を、中国思想史上におけるそれだけではなく欧米での研究史も紹介しながら辿る。私のような門外漢には勉強になることばかり。第二部は、『荘子』を哲学的思考の記録として読み直す試み。読解に際してリンギス、ネーゲルドゥルーズら欧米の現代思想が召還されるが、安易な融合や折衷ではなく『荘子』という書物の強度を試すような読み方をしているところが面白い。

8.ならず者たち

ならず者たち

ならず者たち

ようやく出た、というか、贅沢を言わせてもらえば、もう少し早く紹介してもらいたかった。まだ読み切っていないので贅言は慎む。

9.現代日本哲学への問い

現代日本哲学への問い―「われわれ」とそのかなた

現代日本哲学への問い―「われわれ」とそのかなた

広松渉大森荘蔵永井均高橋哲哉の四氏の哲学を取り上げている。やはり二章を割いて論じる広松渉論が白眉。広松渉相対性理論の哲学』の共著者でもある著者は、認識論・実践論の両面から広松哲学を検証し、その達成と限界を見極めている。

10.該当作無し。

次点として、同点で以下のものを挙げておく。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

完全教祖マニュアル (ちくま新書)

完全教祖マニュアル (ちくま新書)

追憶する社会―神と死霊の表象史 (関西学院大学研究叢書)

追憶する社会―神と死霊の表象史 (関西学院大学研究叢書)

教育と平等―大衆教育社会はいかに生成したか (中公新書)

教育と平等―大衆教育社会はいかに生成したか (中公新書)

私的には、中公新書が健闘した一年だったということか。