古代人は神話を信じたか

この記事は昨夜、寝ぼけて書きなぐったので不備がありました。
コメントやブックマークもいただいたので、以下のように補いました。
先日、『史記〈8〉―列伝〈4〉 (ちくま学芸文庫)』滑稽列伝にある西門豹の逸話を取り上げたところ、コメント欄で、古代の人はどの程度まで神話や伝説を信じていたのか、という問題提起をいただいた。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20120115/1326560052
そういえば『ギリシア人は神話を信じたか―世界を構成する想像力にかんする試論 (叢書・ウニベルシタス)』というような題名の本を読みかけたこともあったが、難しくて途中で投げ出してしまった。
なんだか以前に似たようなことを考えたことがあったように思って、日記を読み返したところ、このブログを始めて間もなくの頃プラトンパイドロス (岩波文庫)』を材料にそういうことを考えた跡があった。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20050623/1124956621
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20050626/1124956765
要旨を整理して再掲する。
プラトンの対話編『パイドロス』の初めの方には、神話・伝説の解釈について面白い考え方が出てくる。もちろん『パイドロス』は歴史書ではないので書かれていることがすべて事実に即しているとは限らないが、古代の知識人の意見をうかがい知ることはできるはずだと思う。
さて、パイドロスに街で出会ったソクラテスは、弁論家リュシアスの作った恋に関する論説をパイドロスから聞くために、二人で腰を落ち着けられる場所を探して歩く。その途中、ソクラテスは、北風の神ボレアスがオレイテュイアという娘をさらっていったという伝説について事実だと信じているか、というパイドロスの問いに答えて、自然現象(突風による転落事故)を擬人化したものだという一種の合理的解釈を語って見せたうえで、次のように言う。

しかし、パイドロス、ぼくの考えを言うと、こういった説明の仕方は、たしかに面白いにはちがいないだろうけれど、ただよほど才知にたけて労をいとわぬ人でなければやれないことだし、それにこんなことをする人は、あまり仕合わせでもないと思うよ。なぜかというと、ほかでもないが、その人はつぎにヒポケンタウロスの姿を納得の行く形に修正しなければならないことになるし、さらにおつぎはキマイラの姿を、ということになる。さらにはまた、これと似たようなゴルゴやベガソスたちの群、そしてまだほかにも不可思議な、妖怪めいたやからどもが大挙して押しよせてくるのだ。もし誰かがこれらの怪物たちのことをそのまま信じないで、その一つ一つをもっともらしい理くつに合うように、こじつけようとしてみたまえ! さぞかしその人は、なにか強引な智慧をふりしぼらなければならないために、たくさんの暇を必要とすることだろう。(p15-p16)

それはソクラテスにとって「われみずからを知る」という「肝心の事柄についてまだ無知でありながら、自分に関係のないさまざまのことについて考えをめぐらすのは笑止千万」なことであり、そうした神話・伝説については「一般にみとめられているところをそのまま信じることにして、いま言ったように、そういう事柄ではなく、ぼく自身に考察を向ける」ことこそが大事な事柄だからなのだ。
実はかつて私は、このソクラテスのセリフを、デカルト方法序説方法序説・情念論 (中公文庫)に出てくる暫定的道徳のようなものだと思っていた。デカルトは方法的懐疑に先立つ「理性が私に対して判断において非決定であれと命ずる間」のために四つの規則(格率)を設けたが、その最初のものはつぎのようである。

第一の格率は、私の国の法律と習慣に服従し、神の恩寵により幼時から教えこまれた宗教をしっかりともちつづけ、ほかのすべてのことでは、私が共に生きてゆかねばならぬ人々のうちの最も分別ある人々が、ふつうに実生活においてとっているところの、最も穏健な、極端からは遠い意見に従って、自分を導く、ということであった。」(デカルト方法序説野田又夫訳、中公文庫、p32

これを最初に読んだときは、23才の若さでこういう姑息なことを考えるデカルトに腹を立て、その先を読まずに投げ出してしまった(後で自分の誤りに気づいて熟読したけれども)。そして、その勢いがのこったまま『パイドロス』を読み、せっかく神話に合理的な解釈をしておきながら、それを「もっともらしい理くつ」「こじつけ」「笑止千万」と断じるプラトンに殺意さえ覚えたものだが、そのときプラトンはとっくの昔に死んでいた(もちろんデカルトも)。
あれから20年以上の月日がたった。その間に私は数え切れない神社仏閣に手を合わせ、自宅には厄よけだの家内安全だの、職場には商売繁盛のお札を飾っている。それらの宗教の説く教えに共感しているわけでも、祈祷の御利益を信じているわけでもないのに。
表面的には同じことをやっているようでも、デカルトは学問を土台から築きなおすために、ソクラテスプラトン)は「われみずからを知る」ためにそうしたのに対し、私は日々の生活の気休めのためや社会慣習を守っている人との間にさざ波を立てたくないためであるにすぎない。だらしない我が身を省みて先哲の前に恥じ入るばかりである。
しかし、いまあらためて思う。神話・伝説を合理的に解釈すべきかどうかは別にして、ヒポケンタウロスは伝えられている通り半人半馬の姿であったかどうか、人面蛇身のゴルゴは実在したのか、ベガソスに翼はあったか、もしそうでなかったとしたら、なぜそのように伝えられ、信じられてきたのか、ということは、はたして「自分に関係のない」ことなのだろうか?
ソクラテスはこの発言に続いて、パイドロスの話を聴くために二人が腰を落ち着ける場所を「おおこれは、ヘラの女神にかけて、このいこいの場所のなんと美しいことよ!」と讃え、「小さい神像や彫像が捧げられているところから察するに、ここはニュンフやアケロオスのいます神聖な土地とみえる。」(p17)と言っている。精霊(ニュンフ)や河神(アケロオス)も神話・伝説上の存在であるが、ソクラテスはそれらを信じているような口ぶりだ。もっともこれだけなら当時の慣用的な表現だとも考えられる。現代の日本人も「今日は憑いていない」と舌打ちするときに幸運の神が実在するかどうかなど気にかけていないだろうし、「人事を尽くして天命を待つ」と口にする人も、天とは何か、など考えたりはしないだろう。私だって普段はそうだ。
けれども神話や伝説、宗教、あるいは伝統文化に対して、どういう態度をとるべきなのか、もう遅いかも知れないが考えておいてもよいことだろう。
ここで『パイドロス』においてソクラテスプラトン)が論じている予言術と占い術の区別についてよく考えてみたい。この区別は単なる違いの指摘ではなく、予言術を占い術の上位においており、その線引きの基準は「神から授けられる狂気は、人間から生まれる正気の分別よりも立派なものである」というものである。
ここで占い術といわれているものは「正気の分別」により「鳥の様子や、そのほかのしるし」など自然界の示す徴候を読みとり、思考の働きによって予測を得ることだから、現代の天気予報と単に精度が違うだけでその仕組みはなんら変わるところがない。道路が渋滞しそうかどうかとか、この会社の株価は上がるか下がるかとか、今度の選挙ではどの候補が当選しそうか、という私たちが日常おこなっている予想も、ここでいう占い術なのである。これは大森荘蔵の言う略画的世界観と密画的世界観ということに通じるものだと思う(『知の構築とその呪縛 (ちくま学芸文庫)』)。
他方、予言術については「神から授けられる狂気」、すなわち神託によって吉凶を判断するものでシャーマニズムと言い換えてもよいだろう。プラトンシャーマニズムを肯定しているのである。それも、訳者藤沢令夫氏による訳注によれば、デルポイもトドネも古代ギリシアにおいて権威ある神託の社であったそうだから、国家のあり方と結びついた正統的な宗教である。
このことから『パイドロス』を読み始めるやすぐにも私の気にかかってきた疑問、いったいソクラテスプラトン)が神話を信じているのは、本気で信じているのか、それとも「われみずからを知る」という「肝心の事柄」に比べれば「自分に関係のない」ことにこだわっているのは無駄だからという一種の暫定的道徳であるのか、という問いに一つの見通しを与えてくれるように思う。
古代ギリシアの神話・伝説は、ソクラテスプラトンが活躍した古代ギリシアから見れば時間的にも空間的にも遠く離れた異教の地に生まれ育った私などはついつい「ギリシア神話」として一括りにしてしまいがちだが、古代ギリシア人、少なくともソクラテスプラトンたちにはその内容によって重要度に差があったのではないか。北風の神ボレアスがオレイテュイアという娘をさらっていったという伝説やヒポケンタウロス、キマイラ、ゴルゴ、ベガソスといった「妖怪めいたやからども」や「怪物たち」は、合理的解釈もできるがいちいちつきあうほどのものでもない。対するに、デルポイやドドネで巫女の口を借りて神託を下すアポロンやゼウスへの信仰はそれらとは別のものである、というような。
私には「神から授けられる狂気」と「人間から生まれる正気の分別」とを分割する線は、予言術と占い術の間を分けると同時に、神託を下す神々と妖怪・怪物との間も分けているように思われる。どうも私の疑問を解く鍵はこの分割線にあるようだ。この分割がプラトニズムの特徴かどうかは他の著作に当たってみないとわからないが、少なくとも『パイドロス』においてはそうだと思う。
以上、かつて書いたことを少し修正して再掲した。
古代中国の話題に、古代ギリシアの例を持ってきて比較するのは、浅薄なトンデモ文明批評のそしりを免れないこととは承知しているが、呆け中年の戯言として聞き流していただきたい。
こうしてみると、古代人が特別に迷信深いわけでもない。
上に引いたことを、正統な信仰と俗信との区別としてとらえると、現代人もさしてかわりはない。現代人にとって、ブッダやキリストの奇跡が意味深いものであるとしたら、それは仏教やキリスト教の歴史的意義が大きく、現代人の生活に影響しているからだ。
もっとも、このように理解された正統な信仰とは、『パイドロス』の基準に照らせば、「人間から生まれる正気の分別」の側にあって、ソクラテスの言う「神から授けられる狂気」にはとうていあてはまらない。そうしてみると、何が貴ぶべき信仰で、何が俗信か、きっぱりと仕分けることは難しくなる。
ベンヤミン『暴力批判論』で言う「神話的」と「神的」というカテゴリーも似たようなものかもしれない。あるいは、カントの美と崇高、考えすぎか。
尻切れトンボだが、もう眠いのでここらへんで。