石川達三『人間の壁』

少し前に『人間の壁』を読んだ。石川達三の小説である。
今、手元に本がないのでうろ覚えで書く。以下、ストレス解消のための戯言なので、間違いがあっても気にしないように。
石川達三『人間の壁』は、五〇年代後半の勤評闘争を背景として、1957年の佐賀県教組事件を題材にした作品で、1957年の八月から1959年の四月まで朝日新聞の朝刊に連載した新聞小説で、1959年には映画化されている。つまり、石川は同時代の、目の前で起きた事件を取り上げたのであって、解説などによると現地でていねいな取材をして執筆に取り組んだという。だからこの作品は、あくまで小説とはいえ社会背景についての情報がてんこ盛りでドキュメンタリー的要素も濃い。
財政再建のため教育への支出を削減する、そのために教師の人員整理をする、その際には組合関係者や女性をねらい打ちにする、という行政の方針により、夫が組合幹部であった女性教師が退職勧奨を受けるところから物語は始まる。
作者の石川は『生きている兵隊』や『金環蝕』で知られ社会派作家と呼ばれることもあったが社会主義作家ではない。この『人間の壁』も全体としては組合側に共感的に描かれているが、準主人公といえる登場人物に組合運動や戦後教育に対するシニカルな意見を表明させており、これもなかなか面白い。
面白かったのはそれだけではない。保守政界が教育界を攻撃するレトリックが今とほとんど同じなのである。つまり、五〇年以上前と現代とで、保守による教育批判は趣旨も表現もほとんど変わっていない。これには驚いた。例えば作中で、教育委員会法(教育委員の公選制)の廃止をめぐる議論も再現されているが、2006年の教育基本法改悪時の議論を彷彿とさせるものがあった。
『人間の壁』が描いているのは、五五年体制成立直後、国際環境は冷戦体制下で、日教組の絶頂期といってもいい時代である。あれから五〇年、冷戦の終わりとともに五五年体制も崩壊し、日教組の組織率も今や実質二割以下という噂もある現代でも、保守論壇の教育批判のレトリックは半世紀前とほとんど同じとは。進歩を拒否するのが保守だと言われればそれまでだが、あれから五〇年、学校や子供をめぐる状況はずいぶん変わった。いくらなんでも五〇年前と同じ状況認識でよいとは思えない。こと教育政策に関して保守派からは生産的な議論は出てこないということがよくわかった。
保守という態度が、時代の変化を冷静に見すえ、その上でなお守るべき価値は何かと考える現実主義的な態度のことだとしたら、日本の教育論者に保守主義者と呼ぶに値する人がいるのか、あいにく私の視野が狭いためか思い浮かばない。
それどころか、新聞などで保守系と一括される論者の主張は、日本は戦中の方がよかった、と言っているような気がする。
よく、復古保守の人が戦前はよかったと言い、それを批判する側も戦前回帰といったりするが、その「戦前」とは、歴史上の戦前、つまり十五年戦争以前のことではないのではないか。「戦前」とは実際には戦時中のことではないのか。
世代的にもそのはずなのだ。現に『人間の壁』で紹介されているように、逆コースを批判した大学人は南原繁ら戦前のオールドリベラリストであって、戦中派ではない。
戦前のある時期に、明治大正と続いた大日本帝国体制にほころびが出はじめ、日中戦争から太平洋戦争へと突きすすんだ。二正面作戦と言えば聞こえはいいが、中国との戦争を継続しながらアメリカとも戦争をする。本当はそれだけではなく、東南アジアに勢力を持っていたオランダやイギリスなどとも戦争をする。現実的に考えれば無茶な話だ。そうした無茶を強行した政府の方針を擁護し、そうした政治を容認した社会体制への回帰を望むというのは正気の沙汰ではない。
世代的な戦中派には、戦争で苦労した、戦争はこりごりだという人たちも多かったろうが、戦時中は得をした、戦争で活気と規律があってよい時代だったという人たちもいたのだろう。後者が戦後の保守政界の形成にかかわり、その思想が今に受け継がれているとすれば、二代目三代目の世代が担っている現代の復古保守の根っこもそのあたりなのだろう(っていうか、そうとしか思えないのだが。具体的に人名も思い浮かぶし)。
我ながら凡庸な感想だが(誰かが書いていたのを以前に読んだような気もするし)、日本の保守言説の保守性たるや欧米の保守主義とくらべたらいかん。
それはともかく、日本の保守主義の対抗勢力に対する批判のレトリックが五〇年たっても変わっていない。社会主義自由主義をひっくるめて左翼(アカ)呼ばわりするところも含めて、おそらく、戦後ずっと同じようなことを言いつづけてきたのだろうということはたいへん面白い発見だった。