Web評論誌『コーラ』39号に〈心霊現象の解釈学〉第17回を寄稿しました。
今回は「ドゥルーズは幽霊を見たか」と題して屁理屈をこねましたが、結論部分がいささか投げやりな気がしてきたので、以下のように補います。
『哲学とは何か』におけるドゥルーズの解釈のベースとなっているのは、「知性による、死の不可避性の表象に対する、自然の防御的反作用」(ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』)というアイデアである。知性は生の道具であるのに、その知性のもたらす死の必然という表象は、生を意気阻喪させ、ややもすると人をニヒリズムに陥らせる。これに対して、生命は知性を欺くニセの知覚を生みだし、人をしてニヒリズムの穴にはまらぬよう回避させる。これがベルクソンの言う仮構作用の原型である。
ドゥルーズは、仮構作用によるヴィジョン(幻視)の例として、ユートピアのような場所(異世界)ではなく、精霊、神々、巨人のような人物を強調している。ベルクソンが『二源泉』で記録した、故障したエレベータの中から忽然と現れて、乗りこもうとした婦人を外に突き飛ばして救ったあの幻の人がドゥルーズの言う巨人にあたる。
『哲学とは何か』で、ドゥルーズの言うところをベルクソンの仮構作用説に沿って言い直してみる。
グローバルな市場における知性である〈市場の-ための-思考〉が、われわれの生を脅かしている。この危険に対する防御反応として仮構機能がはたらく。仮構された幻視(被知覚態)は、グローバルな市場における知性である〈市場の-ための-思考〉が、われわれの生を脅かしていることの警告として現われる。いや、芸術家は、そのような幻視(被知覚態)を創造すべきだ、とドゥルーズは当為の言葉で言っているように読めた。
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●連載〈心霊現象の解釈学〉第17回●
ドゥルーズは幽霊を見たか
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/sinrei-17.html
広坂朋信
前々回(第15回)の終わりに、ベルクソンによる幽霊の理論、死者の幻の意
義と発生についての説明を検討し、それは「幽霊は想像力の産物と言っている
のに等しい」と書いてしまったが、これについては撤回する。
G・バシュラールも「イメージの概念が大きな外延をえているベルクソンの
著作『物質と記憶』のなかでは、生産的想像力にわずか一度言及されているに
すぎない」(『空間の詩学』ちくま学芸文庫、p34)と言うように、ベルクソ
ン哲学は想像力に大きな役割を与えてはいない。ちなみに、引用した文で「イ
メージ」と訳されているのは、原書ではimageだが、ベルクソンが『物質と記
憶』でこの語に与えた意味は独特で、現代の日本語には適当な訳語が見あたら
ず「イマージュ」とカタカナ書きされるのが通例である。
もっとも、バシュラールだけでなく、サルトルもこのイマージュを想像力論
の文脈で受けとめて批判しているくらいだから、フランス人にもわかりづらい
ものらしい。ベルクソンは、人間の感覚がとらえる物質の諸性質が物質そのも
のと本質的に異なるものではない、つまり、カント流の現象と物自体の関係で
はなく、部分と全体の関係にあるということを言おうとしてimageという語を
用いている。
もう一つ、言い訳を付け加えると、私がこんな誤読をしたのは、私の心霊学
の関心のあり方に原因がある。
(Webに続く)
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●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
第54章 夢/パースペクティヴ/時間(その5)
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-54.html
中原紀生
夢のパースペクティヴの四次元をめぐる動態論の要点はふたつ、その一は
「P4⇒P3」のヴァーティカルで力動的な関係性であり、その二は
「P1⇔P2」のホリゾンタルで相互反転的な関係性にあります。
このうち、「P4⇒P3」の垂直運動については、前章で参照した文献類の
なかで、デュナミスからエネルゲイアへ、バーチュアルな潜勢態からアクチュ
アルな現勢態へ、作るものから作られたものへ、ゾーエー(生死未分の根源的
生)からビオス(個体的生)へ、見えない型(不可能な統合・無)から見えな
い形(潜在的統合)もしくは見える型(可能的統合)へ、等々、様々な言い方
で、(微妙な概念的ニュアンスの差異をはらみながら)、論じられていました。
(私はここで「P4⇒P3」があらわすヴァーティカルで力動的な関係性と
「デュナミスからエネルゲイアへ、ゾーエーからビオスへ、…」の関係性とが
同型だと主張しているのであって、「P4=デュナミス、ゾーエー、…」
「P3=エネルゲイア、ビオス、…」と主張しているのではない。)
また、「P1⇔P2」の水平運動については、(「P4⇒P3」ほど多彩で
ないにしても)、自己と他者との水平的で間主体的なあいだをめぐる議論のな
かで言及されていたし、それに、第52章で取りあげた木岡伸夫氏の風景論にお
いて、可視的次元の「原風景=型」と「表現的風景=形」との間に成り立つ関
係性──第49章で引用した文章で、「種々の差異としての〈形〉から統一的な
〈型〉が誕生し、またその逆に〈型〉から無数の〈形〉が導出される、という相
互反転の過程」(『風景の論理──沈黙から語りへ』)と規定されていたもの
──は、水平的と形容していいと思います。
(Webに続く)http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-54.html
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●連載「新・玩物草紙」●
言語島/絵 金
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-43.html
寺田 操
言語の島(言語島)とは「ごく狭い範囲に限って他の言語を用いる地域が、
海中の島のような状態で存在するもの」『大辞林』(三省堂)。山岳地方や隠
里、無人島に近い群島、地域ごとの移住でそこだけでしか通用しない言語のこ
となど。人が住まなくなれば消滅してしまう。言語島をゆっくりと反転させて
みる。どこにも存在しない、存在しているが見えない「言語島」が立ち上がっ
てくる。
森見登美彦の長篇小説『熱帯』(文藝春秋/2018・11・15)は、最
後まで読むことができない幻の本を追って本の内側に滑りこんだ男の不思議な
冒険譚だ。孤島の浜辺に流れついた記憶喪失の男は、島々は魔王の「創造の魔
術」の裡にあり、消えたり現われたりするのだと聞かされた。密林のなかの観
測所、砲台のある島、地下牢の囚人、謎の組織学団、不可視の群島」の海図。
世界と一体化したような海域で起こる謎めいた現象……。
(Webに続く)
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-43.html
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