「責任」という語について

ずいぶん前に書いた日記に、ブックマークやら☆印やらトラックバックまでいただいてビックリしています。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20051006/1128583365
トラックバック下さったsumita-mさんの記事では、私の元記事で主に取り上げた高橋哲哉氏の応答責任論そのものよりも、それから脱線しての呆け中年の独り言の方を気に留めてくださったようで、

「応答責任」という言葉は、レヴィナスデリダの名前と結びつけて語られるのがふつうですが、責任という言葉がresponsabiliteの翻訳語であり、その原語にrespons(応答)という言葉が含まれている以上、ヨーロッパ語圏の人々には、哲学的に洗練されていなかったとしても、責任といえば何かしら応答責任のニュアンスをもって理解されていたのだろうと想像されます。レヴイナスやデリダはその曖昧だったかもしれない伝統をラディカルに突きつめた、そう私は理解しています。

という部分を書き留めていただきました。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081027/1225074961
引用していただいた文章を書いたときには、ヨーロッパ思想史についての漠然とした記憶による推測にすぎなかったのですが、先日から読み始めたレーヴィット共同存在の現象学 (岩波文庫)』にそのものズバリのところ(「責任」の形式的な意味)があったので取り敢えずメモしておきます。

会話は自立化した相互性に頽落することがありうる。このことは、けれども、互いに−−共に−語りあうことのみが責任をもって語ることであるのを妨げない。「個人」としての或る者は、語りかけることも責任をもつこともできない。或る者が語ることに責任をもつ〔応答する〕ことができるのは、その者が他方の者の答えをじぶんの語りかけに立ちかえらせることによってだけである。
或る他者を文字通りの意味で「語りへと引きたてて」、ひとは語りかけられた者に対してじぶんじしん答弁する。そのことでひとはすでに、他者に言明したことがらに対してじぶんは責任があることを告げている。語りかけるさいに、語る者はことばをたんに独立の領有物として他者に引きわたすのではない。ことばが語る者に立ちかえりうる、そのしかたで、言葉を言表しているのである。語る者がこのようなありうべき返答から免れているとすれば、ひとはその語りを、そもそも語りかけとして真摯に受けとることができず、そうした責任を欠いた語りかけから身を退けることになるだろう。語りに責任があるとは、したがって、形式的にはつぎのことを意味するものにほかならない。すなわち、他者の答えに対してさらに語り、そのことでじぶん自身の語りに対して他者に責任をもつというかたちで、或ることについて或る他者に語ること、である。(前掲書、p261-p262)

なお、引用した文章に付された訳注には次のようにあります。

「責任をもつ〔応答する〕」はverantworten,「答え」はAntwort.「責任」のうちには「答え」が語形上ふくまれている。だから、責任をもつことは答えを「立ちかえらせるzuruckkommen lassen」ことなのである。

この本の訳者は仮名遣いについて独特のこだわりがある様子で、変なところで平仮名を使うので読みにくい。「じぶんじしん」と「じぶん自身」の使い分けにはどういう意味があるのでしょうか、よくわかりません。
それはともかく、今回は「応答責任」とはフランス人が最近になって突然言い出したわけではなく、哲学において議論の積み重ね=伝統があってのことだということの確認がとれたことのご報告まで。もっとも、レーヴィットレヴィナスは8歳しか違いませんが。
関連して、http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20080417/1208418601も、あ、これにもsumita-mさんがコメントしてくださっていたんですね。