年始の挨拶を書けなかったわけ

今年こそ定期的にブログを書こうと思っていたのだが、正月早々北陸の震災で気勢をそがれたうえ、1月に94歳の誕生日を迎えた老母がその十日後に亡くなってしまい、もう気力が尽き果てた。
一年前にはこんなことを書いていた。
https://t-hirosaka.hatenablog.com/entry/2023/02/05/120601
この記事から一年もたたずに母を亡くすとは実は予想していなかった。
去年の夏からこの正月までは母は幸いにも小康状態を保ち、ときには冗談めいたことを口にして笑ったり、親戚の見舞いに喜んだりして過ごしていたのだった。この調子なら、ふだんの口癖のように100歳まで生きるのではないかと思っていた。
ところが、親戚も集まって誕生日を祝ってから一週間後、高熱を出し、その日は医師の往診で熱は下がってほっとしたものの、翌日に嘔吐、その次の日には顔に黄だんが出て、夜には息を引き取った。
あまりの急展開に、しばらくは茫然とした。茫然としたまま葬儀を行ない、今は少しずつだが明け渡さなければならない実家の片づけをしている。
両親が、50年住んだ団地の部屋には思い出の染み付いた品々が多く、結局は処分しなければならないことはわかっていてもなかなか捨てられない。
母は明るく、温かい人柄で、家庭の中心だった。また、根気強い努力家で、病気がちの父に代わって家計を支えながら、華道師範の免許を取って近所の人に教えたりしていた。息子の仕事が上手くいくと、手放しで喜んでくれた。
私は母の恩に報いようと、2017年に母がパーキンソン病の診断を受けてから、母の介護に注力してきた。やがて母はレヴィ小体型認知症も併発し、意思疎通の難しくなる時もあったが、それでも母は私を忘れずに、手足が動かないのに私の食事を作ろうとしてくれるのだった。なんという優しい母だったか。リハビリが期待したような効果をあげないため、がっかりした私が母の枕元で泣いていると、懸命に手を動かして私の頭をなでて「どうしたの、泣かないで」と声をかけてくれた。
結局、そこで最期を迎えることになった施設(ホスピス)に入居してしばらくたったころ、ここの居心地はどうかねと尋ねると、「ここはよくしてくれるから、向こうに行くまでもう少し居る」といって看護師さんたちを喜ばせたうえ、私に向かって「私は幸せだった、お前も幸せになりなさい」という名言まで口にして私を泣かせるのだった。
自宅で介護してきた5年間のノート(訪問介護・看護の方々との連絡帳)や、施設に移ってからの二冊のメモ帳を読み返すと思い出は尽きない。
周囲の人たちは十分にやった、献身的な介護だったと言ってくれるが、それでも苦労を重ねてきた母の人生に見合った老後を送らせることができたのだろうか、心もとない。
今日も使わなかった紙おむつの袋を抱きしめて泣いている。