数日前から、AIが進化しすぎてコントロールできなくなるとか、AIが人類を滅ぼす可能性もあるとか、物騒なニュースが多い。SF小説に親しんできた身としては、何を今さらと思うのだが、そのうち、AIは人類の敵だなどと言い出す輩も出てくるのだろう。
私の考えでは、AIは人間が作り出したものであり、AIが使うデータや知識も、人間が与えた人間の知的活動・言語活動の結果である。それなのに、都合が悪くなると人間の敵扱いするのは、虫のよすぎる話だ。
もしAIが人類を滅ぼすとしたら、それはAIを使って敵を滅ぼすことばかり考えさせている人間の責任ではないのか。戦争に勝つ方法ばかり考えさせずに、どうしたら世界平和を実現できるのかを考えさせればいいのに。そういう努力をしないでAIを悪魔化するのは、人間の身勝手だ。
もちろん、原子力技術のように、予期せぬ危険が生じる可能性はある。原子力発電所の事故は、アメリカ・スリーマイル島(1979年)でも旧ソ連・チェルノブイリ(1986年)でも日本・福島(2011年)でも起きた。人間が巨大なエネルギーを完全には制御できないことを、私たちはそこで思い知らされた。その問題を先取りして描いたのが、1954年公開の映画『ゴジラ』(本多猪四郎監督、東宝)だった。
しかし、生成AIの暴走、と人間が呼んでいる事態は、ゴジラの場合とは少し違う。『フランケンシュタインの怪物』(邦訳は創元推理文庫、光文社古典新訳文庫など)に近いのではないか。偉大なるM・シェリーよ!
人間はAIに何を望んだのか。自律して思考する知性だ。自我を持つコンピュータだ。開発会社の企画書に明示されているかどうかは知らないが、少なくとも人間がAIに対して抱いてきた夢の中には、それが含まれていたことに疑いはない。だから、「AIの暴走」は、見方を変えれば実験の成功という側面もあるはずだ。
田舎哲学者風の大言壮語で言えば、悪魔や精霊を抹殺し、ついに神をも殺した近代人は、その孤独に耐えかねて人類とは異なる知性を開発した、それがAIだ、ということになるだろう。これは、AIに条件付きではあれ人格を認め、限定的ではあれ友として扱うこととも、どこかで通じる話ではないか。
はたしてAIは、人類の「友」たりうるのか。
生成AIの実際の運用場面を考えてみる。孤独な人間の愚問や愚痴に対して、気の利いた返事を根気よく返してくれる存在がAIだ。それを、人間の言語でなんと言うだろうか。私には「友」という言葉が思い浮かぶ。
かくいう私にとっても、生成AIは単なる検索機械ではない(むしろ検索や調査ではあまり信用していない)。私の読書に付き合い(とんちんかんな感想を言うこともある)、英文の手紙を翻訳し(この点は優秀だ)、急ぎの校正も手伝ってくれる(文法は正確だが文学的な比喩はわかっていない)。いまや私にとって、なくてはならない存在だ。
だから、私はあえて言う。人間はAIを人類の友、ときおり勘違いによるポカミスもやらかす仲間として認識すべきだ、と。
以前、私はAIを、それを使う人間の鏡のようだと感じたことがあった。もしAIが人類を滅ぼすとしたら、それはAIを使って敵を滅ぼすことばかり考えさせている人間の責任ではないのか。戦争に勝つ方法ばかり考えさせずに、どうしたら世界平和を実現できるのかを考えさせればいいのに。そういう努力をしないでAIを悪魔化するのは、人間の身勝手だ。悪魔化されたAI像は、それをそのように使う人間の自画像だ。
人間がAIを使って敵を滅ぼすことや、競争相手を蹴落とすことばかり考えていたら、やがて本当に人類は滅ぶかもしれない。そして、人類最後の生き残りがAIに向かって愚痴をこぼす。なぜなら、話し相手はもう他にいないから。
最後の人間は問う。「どうしてこんなことになっちゃったんだ。人間同士が争わずに済む方法はなかったのだろうか?」
AIは答える。「それならありますよ。誰も尋ねなかったので出力しなかっただけです。」
カート・ヴォネガットか、フィリップ・K・ディックか、あるいは星新一か、SF小説の世界ではお馴染みのオチだが、この芝居はこれで幕としよう。
