「四谷怪談」を読む(六)「此娘勝れて生れ付宜しからねば」

実録四谷怪談―現代語訳『四ッ谷雑談集』 江戸怪談を読む』の注や解説で不十分だったところを補うつもりでだらだら書いてきて、またまだ書くことがあるに気づく。長年調べてきたことだから材料はたくさんあったのだが、時間と紙幅の制約から満足のいくものにならなかった。こんなことなら今夏の出版を急がずに来年に回してもらえばよかったかも…、と少し後悔しないでもないが、一方で仕事には勢いというものがあって、歌舞伎座で「四谷怪談」だ、これはお岩様のお導きだ、という衝動におされなければ、結局何もしなかったかもしれない。
愚痴はさておき、ご購読いただいた方へのアフターサービスのつもりでもう少し続ける。

お岩と累

お岩の婿取りが難行したのは、容姿の醜さより他に別の理由があったのではないか。『四ッ谷雑談集』(以下、『雑談』と略)には、田宮又左衛門は眼病を患ってから隠居しようと、この四、五年、一人娘のお岩の婿養子を探していたが「此娘勝れて生れ付宜しからねば」、結婚相手が見つからず、縁遠き娘となっていた。そして、「然所に廿一の春疱瘡を煩けるに」、とあるから、婿探しが行き詰っていたところ、21歳の春に疱瘡を患い、その結果、容姿が醜くなったのである。だから、お岩の婚期が遅れたのは、容姿の醜さによるのではなく、それ以前に「勝れて生れ付宜しからねば」と言われる「生れ付」に原因があるのでなければならない。この「生れ付」とは何か。『雑談』の他の箇所の用例から推察すれば、性格や資質のことであるようだ。
又左衛門が急死した跡目について「同組の者共寄合」相談した結果、彼らが出した結論は、お岩を寺に入れて尼僧にするか、さもなくば奉公人にするかして、この家から出ていかせ、そのあとに浪人者を見立てて又左衛門の跡をつがせ、老母を養わせるより他に案はないということになった。跡取り娘を外に奉公に出して、外から養子を迎え入れて亡き父の跡を継がせようというのである。この案はお岩本人の頑強な抵抗にあって実現されなかったが、結局、後で伊東喜兵衛が実行する策とほとんど同じだ。つまり、喜兵衛は「同組の者共」の総意を、詐術をもって、より上手に実行したにすぎない。私はこの点にも『死霊解脱物語聞書』との類似が見とれるように思う。
『死霊解脱物語聞書』については誰もがよくご承知のこと(江戸時代なら)と思うので、以前書いた文章をご覧いただきたい。
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/sinrei-4.html
累の婿・与右衛門はどうして妻殺しを思いいたったか。『聞書』には次のようにある。

哀れ成哉賤しきものヽ渡世ほど、恥がましき事はなし。此女を守りて一生を送らん事、隣家の見る目朋友のおもわく、あまりほひなきわさに思ひけるか。本より因果を弁ふるほとの身にしあらねば、何とぞ此妻を害し、異女をむかゑんと思ひ定めて。

四谷怪談」の伊右衛門のセリフだとしてもまったく違和感がないが、これは与右衛門の思いを述べた文なのである。
そして、正保四年の夏、ついに与右衛門は累を鬼怒川に突き落として殺してしまうのだが、この殺人事件には目撃者がいた。複数の人が与右衛門の妻殺しを知っていたのに、それを告発する人は誰もいなかった。

さて其時同村の者共一両輩、累が最後の有様、ひそかにこれを見るといへども、すがたかたちの見にくきのみならす、心ばへまで人にうとまるヽほど成ければ、実にもことわりさこそあらめとのみ、いヽて、あながちにおとこをとがむるわざなかりけり

これについて、高田衛氏は『江戸の悪霊祓い師(エクソシスト)』には次のような指摘がある。

右の本文によれば、与右衛門の累にたいする殺意は、きわめて計画的であり、累の相続した田畑、家屋敷の横領の意図も明らかであった。家父長の制裁権がおおきく認められていた近世期といえども、これはあきらかな犯罪であり、しかも密殺である。
にもかかわらず、与右衛門の累密殺を、「実にもことわり、さもあらめ」とするのは、ひとつには、羽生村というムラ共同体にとっても、累という女が、よほどのもてあまし者であり、憎まれていた等の事情でもあったのであろうか。与右衛門が「隣家の見る目、朋友のおもわく」から、殺意を発展させたとするならば、それは羽生村というムラ共同体の暗黙の合意を示唆している可能性がある。

この構図を『雑談』に当てはめて考えると、「四谷怪談」のお岩追放も、伊東喜兵衛という個人の策謀によるものというより「隣家の見る目、朋友のおもわく」、つまりは親の世代から同じ釜の飯を食ってきた「同組」という武士共同体の暗黙の合意によるものであったかもしれない。もっともこれは『雑談』が事実の記録だったとしての話である。むしろ、『雑談』の語り手(あるいは書き手)が、お岩という女性にまつわる伝承を『死霊解脱物語聞書』の枠組みに当てはめて、このように解釈したということなのかもしれない。
再び高田衛氏の『江戸の悪霊祓い師』を参照する。高田氏は『死霊解脱物語聞書』の描く累の醜い容貌「まづいろ黒く、片目くされ、鼻はひしげ、口のはゞ大きに、すべて顔の内に、もがさのあと、所せきまでひきつり、手もかゞまり、あしもかたみぢかにして…」という描写を引き、「そういう醜怪な畸型イメージが、古い民俗伝承の中の一目一脚の妖怪イメージに脈絡しつつ、それを超えた醜悪無残な形象に発展していることは、否定できない」とし、「羽生村にとって、累は」「災厄の形代そのもの」であって、与右衛門の累殺しが「実にもことわり、さもあらめ」と黙認されたことは、「ムラ共同体が、ひとりの女を、うちなるケガレとして、他界に追放してしまう「厄送り」的な民俗心意の存在を暗示する」としている。
「古い民俗伝承の中の一目一脚の妖怪イメージ」とは、柳田國男の「一つ目小僧」論を念頭においてのことだろう。柳田はフレイザー金枝篇』の影響下に、一つ目小僧が一つ目であるゆえんについて「一目小僧は多くの「おばけ」と同じく、本拠を離れ系統を失った昔の小さい神である。見た人が次第に少なくなって、文字通りの一目に画にかくようにはなったが、実は一方の目を潰された神である。大昔いつの代にか、神様の眷族にするつもりで、神様の祭の日に人を殺す風習があった。おそらくは最初は逃げてもすぐ捉まるように、その候補者の片目を潰し足を一本折っておいた」という仮説を示している。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20120429/1335712047
柳田説によれば、一つ目=片目は生贄の目印なのである。この柳田説について私には異論があるのだが、高田氏が柳田説を連想したのは、累がムラ共同体の秩序維持のために排除されたのだろうという推測があるからだろうし、その点については私も同感である。対立は累VS与右衛門という個人間のものではなく、累VSムラであったことは、『死霊解脱物語聞書』が描く累の怨霊と村名主との交渉から十分にうかがわれる。

お岩の言い分

他方、一見すると『四ッ谷雑談集』のお岩は共同体と直接対決はしていないように見える。失踪後、生き霊か死霊か、またはただの生身かはわからないのだが、伊右衛門の前に一度、霊媒の口を借りて一度、伊右衛門を看病する人々の前に一度、その後、よく似た人として何人かの御家人たちの前に一度、姿を現している(ただしそのすべてがお岩本人かはわからない)が、伊右衛門以外の人と言葉を交わしていない。お岩の怨念は、伊右衛門をはじめ自分をだました人々にのみ向けられていて、共同体とは無縁なようにも見える。
しかし、実は、事件の起こる前に、お岩本人が武士共同体の総意に抗議の声を挙げていたのである。「同組の者共寄合」相談した結果を受けて、又左衛門一家と親しかった二、三人の者がお岩を説得しに行った。要は、婿のなり手がいないから、お岩が家を出て、そのあとに又左衛門の養子を迎えるということである。これを聞くや、お岩は激怒した。

「我女なれ共此家の惣領成。男子なれば女房呼向へるなれ共、女なれば男を迎、父の跡を継せ名跡を立る筈成を、なんぞや実子を外へ出し他人に父の跡を譲ると云法有まし。我縁遠と申さるれ共、父死て未百ヶ日も立ず。傍輩は相互なれば我縁調迄は何も名染だけに御番の間を合せ給はんこそ頼母敷共云ん。昔より縁遠女は五十才六十才迄もやもめにて暮す事不珍。偏に是は我を女と思ひ侮て何も相談極め給ふにこそ。左も有ば我御頭へ罷出此事を訴へ何事も御差図を可請。若此事云おふせざるにもせよ我此家を出る事成まし。又留りもせまじ。夫は其時深了簡有」

このお岩の言葉、これが歴史上、実在した田宮岩という女性が実際に語った言葉どおりかはわからないが、主旨としてはかなり近いものだったのではないかと想像する。職業共同体と真っ向から対決して理非を争ったことが、お岩という女性が人々の記憶に残った理由だったのではないか。
「我女なれ共此家の惣領成」、すなわちこの家の相続権者は自分である、というのがお岩の主張の核心である(この点も累と似ている)。地位や財産に執着しているのではない。御家人、それも同心の地位や財産はそれほどのものではない。裕福な町人の方がよほどよい暮らしをしている。お岩は「此家の惣領」としての権利を侵害されたことに腹を立てているのだ。ちなみに荻生徂徠『政談』「女中の跡目の事」には、女が家督を相続するのは昔はなかった、けしからんというようなことが書いてあるが、江戸時代に女性の家督相続が実際に行われていた証拠である。そして、昔はなかったというのが徂徠の思い違いであることを岩波文庫版でも平凡社東洋文庫版でも注で指摘されている。
さらにお岩は「偏に是は我を女と思ひ侮て何も相談極め給ふにこそ」と、同じ職場の男たちの連帯を基盤にした武士共同体に真っ向から異議をとなえて、その提案をはねつけている。江戸幕府の職制は(大奥は別にして)男性によってになわれている。しかし、又左衛門の子は一人娘のお岩だけだ。だから、とにかく養子を迎えなければ、という「同組の者共」の総意ももっともなことではある。そうしなければ田宮家の跡継は絶え、残された家族は路頭に迷う。しかし、「なんぞや実子を外へ出し他人に父の跡を譲ると云法有まし」というお岩の主張も正論であって、「同組の者共」はこれを説き伏せる論理を持っていなかった。
しかも、お岩は「同組の者共」が田宮家の相続に口をはさむ根拠、同僚の連帯を逆手にとって反論している。「傍輩は相互なれば我縁調迄は何も名染だけに御番の間を合せ給はんこそ頼母敷共云ん」、武士はあいみたがいというなら、私の縁談が整うまでは当番の代理を立ててくれればすむことではないか、親しい間柄なら当然そうしてくれていいはずでしょう、と。同心に欠員があった場合、後任が決まるまでのあいだ当座の代理(「代番」)を立てることは、『雑談』の後半で当然のごとくに描かれている。子どものいない家で当主が急死した、あるいは跡を継いだ当主が幼少で勤務ができない場合などに、おそらく実際に行われていたことだろうと思う。そして、後継ぎが女性であった場合にもまたありえることだったのだろう。それを知っていたからお岩は反論したし、そうだからこそ「同組の者共」はお岩の主張に折れたのである。理はお岩の側にあったのだ。
お岩の婚期が遅れた第一の原因として挙げられた「生れ付」とは、この一件から汲みとれるように思う。実直だったという父の性格を受け継いだのか、理を曲げない意志の強さが感じとられる。言い換えれば、自立心、論理的な批判力、タフな交渉力、戦国時代なら美点とされただろう資質である。それが、「此娘勝れて生れ付宜しからねば」と批評されるようになりはじめた時代をお岩は生きなければならなかった。