ニセ哲学史(エイプリルフール)

まだギリギリ四月一日だよね。
これから書くことはもちろんエイプリルフールです。
ニセ哲学史というものを思いついた。
要すれば、確認しようのない起源をねつ造すれば何でも言えるというわけだ。
ドイツの哲学者カール・レーヴィットは、ユダヤ系であったため、戦前にナチスの迫害を逃れて来日し、1936年から1941年まで東北帝国大学で教鞭をとった(ここまではホント)。
レーヴィットナチス・ドイツと同盟関係にあった日本政府の目を恐れて、公には後に『ヨーロッパのニヒリズム (1974年)』に結実する近代哲学史を講じていた(ここまでもだいたいホント)。
しかし(ここからウソ)、実は講義のほかにごく少数の学生とだけ私的なゼミナールを催していた。
このゼミナールは一風変わったもので、当時の日本の哲学者の論文を学生たちにドイツ語に訳させ、それに対してレーヴィットが論評を加えるというものだった。西田幾多郎和辻哲郎三木清をはじめ、当時活躍していた主だった日本の哲学者たちのほとんどが検討されていた。
後にレーヴィットが日本の知識人の精神構造について、二階の書斎にはプラトンからハイデガーまでの著作が並んでいるが、生活の場である一階は日本式で、しかもこの家には一階と二階をつなぐ階段がない、と手厳しく指摘したのはよく知られているが、彼は滞在時の印象だけでそう評していたわけではなかった。
このゼミナールが秘密とされた第一の理由は、レーヴィットがナチのゲシュタポによる追及を極度に警戒していたためである。そのため、ドイツ語の達者な学生たちはかえって敬遠され、ドイツ語の未熟な学生に補習をするという名目でひそかに行われていた。レーヴィットの高弟たちの回想にこのゼミのことがふれられていないのはそのためである。
また、東北帝大哲学科同僚たちへの遠慮もあったと思われる。レーヴィットは日本の哲学者の現象学理解には不満を覚えていたようで辛辣に批評している。また、ヘーゲル研究についてもナチの御用学者レベルだと手厳しい。
さらに、アーレント全体主義の起源』に先んじてナチズムとスターリズムの相似を指摘し、日本もこれに同調するなら世界の趨勢から取り残され滅びの道をたどるだろうと予言している。こうした発言からも、戦時中に極秘とされたのは当然だろう。
正味二年間という短い期間だったが、ドイツ語補習を名目とした日本哲学検討会は根気よく続けられ、出席者による膨大なノートが残された。ただし、レーヴィットはこのゼミのことを決して口外してはならぬと厳しく命じ、また、出席者たちも敬愛するレーヴィットナチスにつかまらないようにとそれをよく守ったため、その内容はもちろん、ゼミがあったことすら世間に知られることはなかった。
戦後も、日本でのハイデガー人気は続いていて、ハイデガーの直弟子でありながらハイデガーに批判的だったレーヴィットの学生たちは大学の研究者・教育者として出世する機会に恵まれず、一握りの秀才のほかは、その多くは野に下った。
そして、秘密ゼミの記録は、栄えある研究者の道を歩んだ者ではなく、東北の大地に身を埋めるようにして戦後を生き抜いた数人の手にゆだねられたのである。
日本思想史、いや世界的に見ても貴重な文化交流の記録がなぜ今まで知られてこなかったのか。
その経緯を知る最後の一人が東北を襲った東日本大震災で亡くなった今となっては推測するほかないのだが、東北人は口が重いうえに義理堅い。戦後、恩師レーヴィットがナチの迫害の手を逃れて無事に母国ドイツに帰って健勝であることを知ったのちにも、彼らは「先生が黙ってろとおっしゃったんだから」と沈黙を守りとおしたのだろう。
そうしているうちにレーヴィットの秘密ゼミに出席した最後の一人も、震災で亡くなった。
ところが、ゼミ出席者のうち一人の蔵書が宮城の古書店に引き取られ、大量の哲学書のなかに手書きのノート数冊が混じっているのが発見された。さらに、震災で被災した家屋から故人の形見の品を回収するボランティアが、被災家屋から日記形式のノートを拾い出した。いずれも、旧仮名にドイツ語が混じっているため判読には困難を極め、内容を確認するのに時間がかかった。
この二つのノートが別人による同じ授業の記録だということが分かったのは、日記形式のノートを残した人物の孫にあたる人が、お祖父ちゃんが世話になったL先生って誰だろうと関心を持ち、つてをたどってもう一方のノートの現在の所有者を探し当てたためである。ドイツ語ノートの表紙にもL先生とあったのを古書店主がおぼえていたため、奇跡のような邂逅が実現した。
と、ここまでもちろんウソ。
こんなことやってないで仕事しなきゃ。