明夜さん、森さんへのとりあえずのご返事

教育について、明夜さんや森さんから問いかけられたことを投げ出すつもりはありません。
もう一度調べなおして、あらためて書こうと思います。
ただ、次のことだけは言っておきたいと思います。
それは子どもと親の関係の考え方についてです。これは論者によっては児童のことだけではなく二〇歳前後の青年まで含まれますから、若い世代と言い直してもよいでしょう。
若い世代の変化(前の世代と比較してのことですが)は、負の側面だけだろうか、ということです。最近の若い者はなっとらん、という主張は、必ずや自分または自分の少し上の世代の美点を理想化して言われることです。
もちろん、未来の大人、というモデルは思い描きにくいわけですから、そのこと自体は咎められるべきことではありません。また過去の世代を全否定するのでもない限り「最近の若い者は」というおじいちゃんの小言にも一理はあるのです。すっかりオジサンになってしまった私も、最近の若い者は、と眉をひそめることはしょっちゅうです。また明夜さんの言うように「受動的で脆い子供が増えてないか」ともやはり感じます。その脆さをカバーするために必要以上に自己主張する、諏訪哲二氏が『オレ様化する子どもたち (中公新書ラクレ)』で指摘するするような事柄は実際、広く見られる現象なのでしょうし私もそう感じてもいます。
けれども、歴史を超越した普遍的な理想の人間像を決めることはできない(と私は思います)以上、年長の世代の小言はその基準の取り方についてある程度割り引いて聞かなければなりません。年長の世代にとっての幼年期・少年期・青年期の成長の課題と若い世代のそれとがまったく同じであることはありえないからです(明夜さんの「価値観は世代によって変わっていきます。/同じ価値観を、全くそのまま後世に当てはめるのは無理があるのでしょうね。/そして、それを自分たちの価値基準で間違っていると判断することもできないのでしょう。」というのはその通りです)。ですから、例えば森さんご案内の諏訪氏の「オレ様化」という指摘と、その現象についての批評は切り離して考えた方がよいだろうと思っています
さて、各世代の成長の課題はそれぞれだと考えることは、これは当然、親の子育て、教師の教育における課題も時代によって変わってくるということになります。森さんも言うように親も教師も社会の変化の影響を受けずにいるわけではもちろんありません。森さんはこの点についてグローバリゼーションという社会の大きな変化を挙げましたが、これには私も同意します。ただ、グローバリゼーションという現象をどういうタイムスパンでとらえるかは議論の余地のあるところだと思いますが、この点については『総力戦と現代化 (パルマケイア叢書)』とか『再魔術化する世界―総力戦・“帝国”・グローバリゼーション』とか、山之内学派の本を読み返してみてからでないとうっかりしたことはいえませんし、いまその余裕がないんです、本当に(ヒーッ)。
ただ次のようなことはいえます。明夜さんのコメント、また引用させてくださいね。

親の過干渉、過保護は子供を依存的にします。/勉強はできるし、世の中を生きていくだけの知識もある。/けれど、そこに何かが足りない。/その何かが、「満たされない」何かとして心の中に残り続けるのかなって思います。/親が、子供をコントロールしようという時代。/それだけ、自分で考える機会が減っているのかもしれません。/自分で、自分の人生を生きている実感が薄れていっているのかもしれない。

おっしゃる通りです。そしてこれは、新人類、オタク、フリーター、無関心・無責任・無感動などと形容された私の属する世代についても言われたことなんです。いまから二五年以上前のことです。そういう奴らが親や教師になっているから子どもが変になるんだ、という主張もありますが、それは間違っています。子どもは親の影響だけを受けて育つわけではありませんし、ましてや親のコピーではない。
その上、明夜さんのおっしゃるようなことは、少なくとも私の記憶では、この二五年以上の間、言われ続けてきたことです。晩婚化が始まった私たちの世代の多くが親になり始めたのがおおよそ一五年ほど前からですから、それ以前の世代が育てた子どもも同じことが言われていたし、それ以降の世代が育てている子どももいま同じことが言われている(私たちの世代で孫がいるのはごく少数です)。
こんなことを言うのは、別に私が自分の属する世代を弁護したいがためではありません。ポスト団塊でも団塊ジュニアでも、基準にとる世代はどれでもよいのです。結論はほぼ同じだろうという見通しを私はもっています。
すっかり長くなってしまったので、もうこのまま書いてしまいますね。
さて、この二五年間(四半世紀ですね)、児童から青年までの若い世代は、ひたすらひ弱になり、人間として下降線をたどり続けていたでしょうか。私もいくらかは自分より若い世代の方々とお話ししたりすることがありますが、懐疑的なポストモダン世代のオッサンからすれば、もう少しシニカルに構えてもよいのでは、と思うほど、前向きに真摯に生きている人の方が多いような印象を受けています。脳天気な私の世代では、森さんのように社会に危機感を持って一所懸命議論する人などまれでしたよ。
昨今話題のニートや引きこもりはどうか、と言われれば、あれは失業率の増大によって若い世代の活躍の場が狭まっているからでしょう。バブルと呼ばれた未曾有の好景気下で青少年期を過ごした私たちの世代ですらフリーターやオタクが大勢いたんです。こんなご時世では夢も希望もなくて当たり前ではありませんか。
一言、のつもりがずいぶん長くなってしまいました。お米が切れたので、今日は早めに帰って買い出しをしなければなりませんので、結論を急ぎます。
以上、述べてきたことは手元に何も資料がない状態で、私の狭い経験のみを頼りに(しかも上司である妻の目を盗んで!)書いていますので、誤りや思い違いも多々あるでしょうが、大筋において当たっているとすれば、昨今の子どもが変になったのは親の責任だ、というのは、やはりおかしなことなんです。誤解なきよう言い添えれば、個々のケースを取り上げれば、子どもの成長に親の影響は重大です。その意味で親の子どもに対する責任というものは確かにある。けれども、親一般、子ども一般の関係として、そういうことはできないはずです。どの親もそれぞれの仕方で子を育て、どの子もそれぞれの仕方で成長する、その最大公約数や平均をとることはできるかもしれませんが、それをもって本質論を語ることはできません。
明夜さんは「親が、子供をコントロールしようという時代」だと、そして森さんはさらに過激に「現代の母親は子どもに自分の適わなかった夢や願望を仮託しておもちゃにし、母子密着型の閉鎖教育によって子どもの自立を阻害しています」とまでおっしゃる。はい、その通りです。私の世代を育てた親もそうでしたから。そしておそらくどの世代の親もそうなんです。けれども子どもは親の思った通りには育たない。明夜さんはどうですか?森さんはどうですか?親の敷いたレールの上を唯々諾々と歩んでおられるのですか?おそらくそうではないでしょう。
ですから、親子関係に決定論的なものを持ち込むのは事実に反するし、悪くすると、ひたすら過去を美化し、現在を堕落とみなすことにしかならないだろうと思うのです。
なお、私が「母原病」という言葉にいらだっているのは、何も恩愛深き母への孝道に背くからでも、「母子密着型の閉鎖教育」の問題を無視しているからでもなく、森さんのご指摘のとおり「現在の教育問題には幾つかの異なった水準」があり「各水準ごとに分けて考え、教育の内部、外部それぞれの問題として個別に提起する必要がある」のにもかかわらず「ダメな教育を生み出してしまう社会システムの問題」を捨象して、親、それも母親だけに全責任を負わせる方向に議論を向かわせ、その他の要因を免責してしまうからなのです。この点で私と森さんとでは議論の運び方は違うけれども、大筋同じような枠組みで考えているのだろうとは思っています(森さんも「表面的な事象だけ見れば」と条件を付けていますしね)。ただ「母原病」という言葉は私は使いません。「母子密着型の閉鎖教育」という現象があるにせよ、「母原病」という言葉が暗示する枠組みで議論することは拒否します。
いやはや、本当に長くなってしまいました。どこが謹慎中なんだか。
以上、森さんから見れば甘い議論でしょうし、明夜さんの感じられていることとずれがあるだろうことは承知しております。その上、私は親でも教師でもない。お気楽な立場からの放言と思し召して、どうかもうこの辺で勘弁してやってください。