異議申し立て問題

一人、論客を挙げそびれておりましたので、追加します。
http://d.hatena.ne.jp/t_kei/20060305/p1
最後のところ、大事な問題提起だと思いますので、ちょっと長いですが引用させていただきます。

さて、これらのことから、僕たちの多くが古くさい抑圧的な宗教に基づくものだと見做していた主張の背景に、より正当な社会を求めたいという希求があり、そのような意味において、肯定すべき点も多々あるのだということ、そして何より、常に発展し、変化する余地があるのだということを感じることができるだろう。大峰山との対置において考えるならば、「伝統と現代的な視座の対立」という側面だけではなく、「社会の捉え直しの過程にある当事者」「現況に対して異議申し立てをおこなっている当事者」としての側面も見るならば、「伝統と現代的な視座の対立」と見做していた時の布置が、まったく反転するだろう。僕たちが固定的な観点で断を下すとき、ものごとが含むこのような多義を、そして発展の可能性を摘んでしまう。もちろん僕たちは、主張をする時に何かの観点に依ることを避けることができない。特に、異議申し立ての主張に対して「一方の視点に立ちすぎる」などといった批判をすることは、許すべからざるものだろう。そうであるならば、要請される姿勢はやはり、対話の道を閉ざさないということであり、批判されるべきは、その対話の道を閉ざすという行為だろう。そして、異議申し立てに対して誠実に応答せずに、結果として対話の道が閉ざされるのであれば、その姿勢を支える通念を、やはり問題として指摘しなければならない。

バランスとか、偏りのないことを気にする人がやたら多くなっているような気がするのですが、中立性とか、客観性というものはそんなに簡単に成立するものでもないでしょう。とくに芸術や社会のことを論じるときには。
何かを語れば、その語った言葉が、その言葉を語り出した視点を逆措定(反照規定?)してしまう。そういう意味でなんらかの視点に立つことは避けられない。
そうであれば、むしろ問題は、その視点への無自覚や、開き直り=閉じこもりである。
そこで、さらなる問題。言説や視点の一貫性、発言者と言論とその視点の同一性は、はたして望ましいことなのか。
対話が可能になるためには、自分の視点(立場)を離れてみることも必要だろう。それに固執していては他人の言うことなどわかろうはずもないから。
しかし、あまりに細密な議論は、現実には役に立たないことも多い、という汚い大人の知恵もある。
さて、どうしたものか?
すいません、頭がボンヤリして、気の利いたコメントの一つも付けられません。
自分のためのメモになってしまいました。