縁側にて

積ん読本の消化と晩ご飯のおかずの記録、ときどき愚痴、というのが趣旨の、いかにも情けないこの日記のコメント欄で、id:kurahitoさんとid:t_keiさんとの間で、えらく難しい議論がなされていてビックリしてしまいました。
お二人ともおそらくは社会人だろうに、よくもまあ先鋭な問題意識を維持し続けられているものだと感心してしまいます。かくいう僕なんぞは就職したとたんに脳みそが半分くらい豆腐になって、残った半分も毎年春になると鼻水になって流れ出てしまうので、年々ものを考えるのが非常に億劫になっています。脳みそが減るかわりに腹に脂肪がついたので、脂肪が考えてくれると助かるのだけれども、この第二の脳は晩のおかずのことしか考えられないらしいし…。
ところで、お二方のコメントは僕にはとても理解できないような高度なものなのですが、せっかくいただいたのですから、何か応答しないともったいないかなあという気分になってきました。
まずt_keiさんから、対話の可能性というものの性格についてどう捉えるかという問題提起があり、私は純粋で混じりけのない理想的な意志疎通など日常的なコミュニケーションの場でも行われていないのだから、その可能性のなかには誤解や断絶、沈黙や反目も含めてもいいのではないか、というつもりのことを申し上げました。むしろ、相手の言ったことを単純に肯定していると白けた会話になるほどです。「好い天気だね」「うん、そうだね」というように。
この私の素朴な感想に対してt_keiさんは、「そうですね。「対話の可能性」、僕もそう思います。」と、一見すると素朴な肯定に見えるようなことを言いながら、あらためてご自分の問題提起の趣旨を説明されました。

対話をするということを考える時、それは、他者の可能性に賭けているとも言えるし、同時に、自己に内在する他者性と対話しているとも言えるだろうと考えました。そして、そのように考えるならば、(これは極論ですが)差別や暴力ですら、すでに対話と言い得るのではないか、そうであるならば、「やはり問題として指摘しなければならない」ということは全くその通りではあるけれど、もう少し視点をずらした形で別の言い表し方があるんじゃないか、そんなことを考えていました。

この「差別や暴力ですら、すでに対話と言い得るのではないか」というところは私がまったく見落としていたところです。ここを鋭敏にすくい取ったのが、kurahitoさんの「「対話の可能性」コレスポンシビリティー(共犯可能性)でしょうか。」というコメントでした。
ところが僕には、まだ問題の核心が見えていなかったので、トンチンカンな受け答えをしてしまいます。
そこでkurahitoさんは、私の思考力減退を哀れんで、説明を重ねて下さいました。

> コレスポンシビリティー はt_keiさんの「差別や暴力」への形容でした。
> 何を共に侵犯しているのか は他者の法=権利=現実だと思います。
> 共謀 とは「自己に内在する他者性」に関して行われるものであり、コレスポンスは共犯と分ち難く思われます。
高橋源一郎が「空爆はコミュニケーションだ」とか申しておりましたが、一部低脳の手によって乱発されすぎた「コミュニカシオン」は言葉を欠いた交流であり、対話は「共犯を欠いた力の流れ」になりがちだと思われます。「言葉=対話(=脱共犯)」でも「現実=共犯」でもありえる「縁」のようなものをコレスポンデンスと呼びたいと思います。
「共犯」を犯す共犯と「他者」を犯す共犯があるように思えます。

で、ここでようやく僕は遅まきながらお二人が何を問題にされていたのかに気づきますが、まだ頭が回らないので気のきいた応答ができず、のんきに『墨子』なんぞを読んでいたのでした。
私がボケボケしている間にt_keiさんがkurahitoさんに応答してくださいます。

kurahitoさんの『「言葉=対話(=脱共犯)」でも「現実=共犯」でもありえる「縁」』という言葉はとてもおもしろいと思いました。この世界を(その現実を)形成しているという意味において、その当事者全ては、「現実=共犯」と言えるかもしれない、また同時に、言葉による規定(対話)によって、その世界を形成しているという共犯関係から脱する(脱共犯)とも言い得るだろう、という訳ですね。僕も似たようなことを考えていました。このような意味において、差別や暴力というもののその行為者は、糾弾の対象であると同時に同胞でもある、と言い得るのではないか、そんなことを考えています。この見解はもちろん、ふたつの点で危うい側面を秘めています。ひとつは、それが過度の相対化に陥ってしまいかねないのではないか、という点。もうひとつは、このような見解は、関係性の過度の神秘化なのではないか、という点。でも僕は、当然あるであろう、それらふたつの側面からの批判に対しても、もう少しうまく言えれば説得力を持ち得るんじゃないか、と思っています。また、何よりも僕自身の生に、そのような側面(つまり、kurahitoさんが言うような『「言葉=対話(=脱共犯)」でも「現実=共犯」でもありえる「縁」』)が加わることを望んでいます。』

私も「「言葉=対話(=脱共犯)」でも「現実=共犯」でもありえる「縁」のようなものをコレスポンデンスと呼びたい」というkurahitoさんの、なんというべきか、やはり「言葉」(?)は面白く感じました。けれどもよくわからなかった。
いちばんとまどったのは、この「縁」という文字をどう読むかなんです。「えん」と読めば、因縁、縁起、ご縁の「えん」で、t_keiさんの解されたように関係性となります。ところが「縁」という文字は、「ふち」とも「へり」とも読みますよね。そう読んだところで関係性という意味が消えるわけではありませんが、ニュアンスは少し変わってくるでしょう。
対話の可能性が共犯可能性で、「何を共に侵犯しているのか は他者の法=権利=現実」であるならば、「縁」は関係性であるとともに、他者と自己を分け隔てる「ふち」や「へり」でもある。額縁や縁側がそうであるように、「縁」は自己と他者、内部と外部を分け隔てつつ連絡する境界ということでしょう。それは自−他を結ぶけれども、自−他の区別を解消させたり、融合させたりするものではない。
このように受けとると、t_keiさんが憂慮されているような「関係性の過度の神秘化」や、「その当事者全ては、「現実=共犯」」と言い切ったとしても「「一億総懺悔」だとか、「被抑圧側にも問題がある」だとか、そういったような、度し難い相対化」にはならないのではないか。そんなふうに考えてみました。
中途半端ですが、とりあえずご両所の議論をこんなふうに受けとっています、ということを申し上げて、新たな御指南をお待ちすることにします。