「伝統」の語られ方

現行法と与党案要綱の前文を比べてみると、教育が育成すべき人間像としては現行法の「真理と平和」が与党案要綱では「真理と正義」に、教育が目指す文化に関しては現行法の「普遍的」という形容がなくなって与党案要綱では「伝統」が加えられていることが目に付きます。
すでにkurahitoさんが指摘しているとおり、与党案要綱の前文に加えられた「伝統」は、漠然としているばかりか、その持ち出され方にいかがわしい感じがする(http://d.hatena.ne.jp/kurahito/20060415/p1)。
以下、kurahitoさんの尻馬に乗って、私なりに思ったことを書き留めておきます。
かくいう私自身は、いわゆる日本の伝統文化を愛好するタイプであり、教育とは結局は古い世代の達成した文化を新しい世代に伝える営みであろうと思うので「伝統」という言葉が加えられることのみをもって苦情を言い立てようとは思わないが、現行法と比較してみるとこの与党案要綱での「伝統」の語られ方には重大な問題があると思う。
現行法では「普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造を目指す教育」となっているところが、与党案要綱では「伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育」に変えられている。
普遍的であることと個性的であることは、ふつうは反対の意味である。現行法は教育にこの両極の緊張関係を保つことを要求している。ところが与党要綱案ではこの緊張関係が、古さと新しさという軸に置き換えられている。
「伝統」という言葉には古さのほかに個性的(特殊日本的)というニュアンスもあるが、新しさには普遍的というニュアンスは必要ないので、日本の教育はもはや普遍的であることを目指さない、ひたすら個性的(すなわち特殊日本的)であることを目指すということになる。
こうした主張の背景には、やはりグローバリゼーションと呼ばれる社会の国際化が反映しているのだろう。文化の多元化に対抗して「伝統」に社会の求心力を求める発想である。
こうした発想をいかがわしいというのはなぜか。

普遍との緊張関係を欠いた個性

第一に、普遍との緊張関係を欠いた個性(伝統)は無内容だからである。
この点についてはlapisさんが卓見を述べておられる。

ここから「個人の自由と尊厳/普遍」という回路から「集団/秩序/伝統」という回路への価値観のシフトを見て取るのは、素直な解釈というものでしょう。
秩序と伝統は考えなくても出てくる。個人の自由と尊厳そして普遍という対象は、反省=内省なしでは取り出せない。(http://d.hatena.ne.jp/lapis/20060414/p1

個性(たとえば日本人らしさ)とは他との比較において言われることで、その比較は背景に普遍性の次元を想定しなければ成り立たない。他と比較して己を省みるときの視点は普遍そのものではないにしても自己の特殊性から一歩離脱しているはずである。普遍との緊張関係を欠いた個性は、他との比較において自らを定義できない以上、自己の連続性をもって「伝統」と言うほかなくなる。しかし、その伝統も結局は漠然としたものにすぎない。

「温故知新」か

第二に、漠然と語られる「伝統」はただ単に今より古いもの全般を指すほかなく、その故に語る人によって恣意的に内容を選択し定義できるからである。
このいかがわしさについてはtanzakukaitaさんも指摘している。

伝統とは何を指すか?
尊重すべき伝統とそうでない伝統との区別がつかれる恐れがあります。
そもそも、今ある民俗事象なんてのは遡っても江戸時代中期以降のものがほとんどです。

民俗学が再び国家の政策に巻き込まれていく気がします。
その萌芽はすでに、教育課程の「総合学習」にあるのでしょうね。

「伝統っぽいもの」を「体験」する、といった動きはすでにあるようです。
だいたい、民俗事象なんてのは、今そこに生活している人が、続けずにはいられないから継承されるものだと考えています。
時代の趨勢に従って意味が蒸発したものは、新たな意味が付け加えられるか、もしくは消滅するか。
「残っている」ものであって「残すべき」ものではありません。
それに、継承してこない、新たに生じた民俗を軽視することになりかねませんし。

なんか恣意的で、こええ風潮です。(http://d.hatena.ne.jp/tanzakukaita/20060414

「伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す」、つまり、古い文化を受け容れ、新しい文化も目指す、というのは「温故知新」という『論語』為政篇に由来する熟語を連想させる。教育基本法にこの文言を入れようとした人の念頭にあったのは十中八九『論語』であろうと思う。
しかし、これを言いだした孔子自身、彼が理想とした周以来の礼の伝統については詳しいことは知らずに伝統とはかくあるべし、という思いにもとづいて創作していたという指摘がある(浅野裕一諸子百家』p117)。だから韓非は、復古主義者はバカか嘘つきのいずれかである(「愚に非ざれば則ち誣なり」岩波文庫版『韓非子』第四冊、p212)と儒家復古主義を非難したのだ。
私は、往古に現状への批判(あるべき状態への期待)を仮託する議論としては復古主義にも効用を認めるが、しかし、それはあくまでも仮託であって、そのことの自覚を忘れた復古主義・伝統主義は韓非の言う「愚誣の学、雑反の行」と言わざるをえない。

それはワガママと言うんだよ

くたびれているので、バカのくせに(だから)やけに理屈っぽい文になってしまったが、付け加えておくと、普遍との緊張を欠いた空疎な「伝統」が持ち出される理由は、いろいろ議論はあろうが、結局はグローバリゼーションに対する防衛機制、一種の退行現象という素朴な仮説がよく当てはまるように思う。
そう思えば、与党案要綱に家庭教育や幼児教育が加えられているのも、なにやら暗示的ではある。環境の変化に疲れて全能感に浸っていられた古きよき時代を懐かしむ、ということは、個人生活ではあってよいし、私など家に帰れば三歳児状態になりまちゅ。しかし、公教育がそれでよいのだろうか。
脱線するが、東京都教委は職員会議を命令通達の場にしたいらしい。文句ばっかり言っている教員はけしからん、というわけだろうが、そう言いたがるのは、かく言うご本人が文句を言われない立場にいたいがためであろう。文句は付けたいが文句は付けられたくない、一方的に命令できる立場にあると思いたいのだ。坊や(お嬢ちゃん)、それはワガママと言うんだよ、と諭してあげるのも教育の仕事である。
ところが、いま、幼児返りの傾向を強めているのは当の教育行政の側なのだから、頭の痛い話だ。