かつて実際に行われたタウンミーティングも出来レースだったが

かつて実際に行われたタウンミーティングの雰囲気は(実は妻がのぞいてきたのだが)、シンポジウム形式で行われ、複数の発言者が登壇するが、誰が発言するかはあらかじめ文科省サイドで決められており、政府案に賛成の立場の人が多く選ばれている。
もちろん、反対、または態度保留の立場の人も選ばれてはいるのだが、妻が参加した会の場合は「腰砕け」であり、質疑の時間に会場から手厳しい質問が続くと、司会者がそれとなく別の話題に話をそらしたりしたそうである(我が愛妻談)。
つまり、最初から出来レースなのであり、双方向の対話というより文科省の広報活動の一環にすぎない。それなのにやらせ発言者「教基のサクラ」(id:holyagammonさん命名)まで用意するとは、ずいぶんと念の入った八百長ではないか。
選挙に大勝した与党にとって、何も心配することはない状況だというのに、無駄に手が込みすぎている。
花田清輝が、マキャベリズムの現代における亜流についてからかっていたことを思い出す。花田によれば権謀術数におぼれる政治家は、あたかも韻律のために詩を書く詩人のようなもので「マキャベリにとって、権謀術数は、政治をするための健康な手段にすぎなかったのに、かれらの手にかかると、目的と手段とは転倒し、権謀術数を行うために、政治が必要とされるにいたる」(『復興期の精神 (講談社学術文庫)』)。すると、内閣府にも、韻律のために詩を書く美の追究者のごとき政治家がいたということか。
しかし、それはほめすぎかも知れない。むしろ、トリックはまだ見破られていないのにその演目には不必要なサクラが露見してショーを台無しにしてしまった間抜けな奇術師のような話だ。
こうした過剰な不安は、精神分析的考察の対象になるような気もする。

追記「文科省の担当者が後を追っていき、座席の位置を確認します」!

以下はタウンミーティングやらせ発言事件の発生現場、青森県の地元紙「東奥日報」の記事より。
http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2006/20061104093848.asp

 そして県教委教育政策課は九月一日付ファクスで、この中学校長に内閣府からの注意事項を伝えた。国が依頼した経緯は伏せて「あくまで自分の意見を言っている、という感じで」話すことなどを「発言を引き受けてくださったPTA会長さんにお伝えいただきたい」とつづっている。「当日の受付で本人を確認し、文科省依頼の発言者については、文科省の担当者が後を追っていき、座席の位置を確認します」との記述もあった。

「当日の受付で本人を確認し、文科省依頼の発言者については、文科省の担当者が後を追っていき、座席の位置を確認します」!
唖然。ちょっと言葉が出ない。なんでそこまでするかね?

付記の付記「なあなあ」が民主主義を堕落させる

以下はタウンミーティングやらせ発言事件について「中国新聞」の社説より。
http://www.chugoku-np.co.jp/Syasetu/Sh200611040161.html

このタウンミーティング小泉純一郎前首相時代のことだが、安倍晋三首相は当時、内閣府を統括する官房長官であり、当事者だった。内閣府のこうした「やらせ」は、地方の場を甘くみている表れではないか。それを唯々諾々と受ける地方の教育機関や、周辺の市民にも反省すべき点があろう。さらに、一般国民にも、こうした場での一種の「やらせ」を容認する空気はないか。そうした「なあなあ」が民主主義を堕落させるのである。

 安倍首相は「国民と双方向で意見交換できる大切な場であり、誤解があってはならない」と内閣府を注意した。塩崎恭久官房長官も事実関係の調査を命じた。真の民主主義へ、きっちり見直したい。

やっぱり鏡に向かって注意したんだ。