これが伝統だ?

教育基本法改正案本音バージョンは、文科大臣が言っている。
http://www.webtv.sangiin.go.jp/webtv/library/consider.phpより。
参院教育基本法に関する特別委員会11月30日の質疑から。

福島瑞穂議員の「伝統とは何か」という質問に対して。
伊吹文科大臣「伝統とは何か、文化とは何か、というのは、具体的には、それは、その人その人のとらえ方ですから、これが伝統だと思われたものが伝統だということです。」
夫婦同姓は伝統か、という質問に対して。
伊吹文科大臣「これはその人その人のとらえ方でしょうが、日本の多くの人たちは夫婦同姓です。夫婦同姓は伝統ととらえていると思います。しかし、個々の法律において、これが伝統ではないと思われた方は、最終的に司法の判断を仰いで自分の不利益を救済できる道は、日本の法律の中に、日本国憲法の中に三権分立というかたちで組み込まれています。」

聞き間違い、打ち間違いはご容赦。ただ、大意は損なっていないはずです。
さて、各人がこれが伝統だと思ったものが伝統でよいのかというとそんなことはない。それは各人の伝統観であって、伝統ではない。
客観的に特定できる「伝統そのもの」という実体があると想定することはできない(したがって伝統は諸個人の主観からは離れられない)が、伝統は諸個人の歴史観・文化観・芸術観・道徳観etcそのものではない。だからこそ伝統(的秩序、的作法、的意味etc)と諸個人の観念のあいだに摩擦が生じたりするものだ。
むしろ、現代の価値観と摩擦の生じないような伝統など「伝統」の名に値しない。摩擦がないというのなら、伝統芸能の継承者達はなんの苦労もないだろうが、そのかわり伝統の重みというものもなくなる。実際は、過去からの技芸や知識の蓄積と格闘し、その葛藤の中で伝統を現代に活かすということが行われている。摩擦や葛藤のない伝統の継承などただのマンネリ=旧習の無自覚な維持でしかないからだ。そこに堕したとたんに伝統は遺物と化す。
伝統というならば、幾世代にもわたって批判的継承が繰り返され、そのことによる洗練や深みというものが期待されるところである。ところが、文科大臣答弁にいう「伝統」とは、その実「通念」にすぎないものであって、そこには洗練のかけらもない。
これでは伝統文化が形骸化すると嘆いていたら、夫婦同姓についてのやりとりではもっとすごいことを言っている。
「これが伝統だと思われたものが伝統」で、「日本の多くの人たちは夫婦同姓です。夫婦同姓は伝統ととらえていると思」う、だから夫婦同姓は伝統だというのなら、多くの人にそう思われていると、漠然と思われるものが「伝統」ということになる。そして、これは教育基本法についての議論だから、多くの人の思いはこうであろう、と、なんとなく思う、その思いの主体は教育内容を定める側ということになる。政府案において教育内容を定める側とは文部科学省、そのトップは文科大臣、つまり、これは、オレが思ったことが伝統だ、と言っているに等しい。
そもそも「日本の多くの人たち」が夫婦同姓なのは、それが伝統だからではなく、民法で定められているからそうしているだけだろうに。おかげでわが愛妻と私はいまだに内縁状態の同居人のままである。かかる不利益を解消するためにわざわざ司法の判断を仰がずにすむようにしていただきたいものだ。