立ち読みをしていたら

いじめと現代社会――「暴力と憎悪」から「自由ときずな」へ――

いじめと現代社会――「暴力と憎悪」から「自由ときずな」へ――

昨日の昼食後、立ち寄った書店で見つけて立ち読みをはじめたら、結構面白い。
冒頭の本田由紀氏との対談を読み終え、第2章の「憎悪の連鎖を断ち切るために」をちょうど半分まで読み進んだところで、妻から携帯電話。
「いつまでほっつき歩いてるの。まだ仕事中なんだからね」
せっかく途中まで読んだのだからと、つい買ってしまった。
お陰で、帯に誤植のある貴重な初版本を手に入れることが出来た(ついでだが『いきの構造』の著者は「九鬼周三」ではなく九鬼周造)。
帰りの電車の中で、全体の半分くらいまで読んだところだが、共感するところが多い。
内容は前著『いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体』で述べられていることを敷衍したものだが、前著が理論的な著作だったのに比べて、エッセイ調で書かれているので、私のような素人にも読みやすい。
いじめについての本は数多く出ているが、その大半は「こんなに酷いいじめの実態」というような告発調のもので、ではどうすればよいかという議論になると、抽象的な精神論や理想の教師待望論で終わることが多い。
そうしたタイプのいじめ本は、ややもするとエモーショナルにすぎて、かえってこの問題をまじめに考えようとする人の気をそいでしまうのではないかと心配になるほどだ。
本書はそれらとは一線を画し、どうしたらいじめの被害を軽減することが出来るかという著者の強い関心に導かれた知的営為が提示されている。
とはいえ、著者が「いじめの実態」に関心が薄いというわけではないだろう。むしろ、その逆で、さまざまなケースをよく知っているからこそ、いくつかの悲劇的な事例だけをドラマとして描くことに満足できず、いじめという現象の発生の原因を尋ね、その解消の方法を模索したのだろうと思う。

追記

 本書の主張にはおおむね共感できるが、次の点については賛同しない。
 今上陛下のお言葉の意図を忖度しているが、これはおおむね当たっていると思う。ただし、そこから象徴天皇制への期待を語ってしまうのは賛同しない。ある家系が常に明君・賢帝を輩出するとは限らないし、そもそも世襲君主制という制度は、著者の構想するリベラルな民主主義社会と矛盾するのではなかろうか(いったいある家系の継承者にその血統の故をもって、リベラルな社会の守護者たれ、と強制できるものだろうか)。また、明君への期待は、本書の冒頭で述べられている「「教えて治に至る」タイプの社会」への批判と矛盾する。