福助のお岩

演目は私の大好きな「東海道四谷怪談」(台本は「いろは仮名四谷怪談」ヴァージョンのようだった)。
伊右衛門役は吉右衛門なのだが、迫力がありすぎてどうしても長谷川平蔵に見えてしまうのは仕方ないにしても、与茂七役の染五郎のはさすがの美男ぶりだが、以前、天井桟敷から観た勘九郎(現・勘三郎)の与茂七の味のあるコミカルさが思い出されて、つい比較してしまう。
他にも、直助役の役者はセリフをとちるは、宅悦役は間をはずすは、喜平衛役は凄みが足りないは、お袖役は老けすぎているは、とアラはいくらもあったが、お梅役は健闘していた。
なにより、お岩役の中村福助が熱演。髪梳きの場では思わず涙が出た。
帰宅したら、朝日の夕刊に、たった今観てきた芝居についてのトンチンカンな劇評が出ていたのに失笑。福助の独演が長いの、伝承芸らしい雰囲気が失われるのと、苦情を言っている。福助の芝居は台本通りである。苦情は南北に言うがいい。演出は六代目歌右衛門のお岩を参考にしたそうだ。伝承芸がどうのこうのとちゃんちゃら可笑しい。
今回の演出の眼目は嘆きのお岩にあるのだろう。
無邪気なほどに人を信じ、だまされ、裏切られ、死んでいくお岩の哀れさが際だつ髪梳きの場であった。
伊右衛門の芝居ではなく、徹頭徹尾、お岩の芝居としてつくった。お陰で、いままで見えなかったものが見えた。
南北の造形したお岩という人物像について、父の仇討ちにこだわるところをとらえて、崩れつつある武家のしきたりへのこだわりや、プライドの高さが指摘されたこともある。
だが、お岩が武家社会の価値観の権化だとしたならば、たとえ貧困と病苦に疲れていたとしても、塩冶家に仕えていた父にとっては仇敵である高家の家中、伊藤家からの援助をあんなにも有り難がるのはちぐはぐである。
福助は、伊藤家から差し入れられた血の道の良薬(実は面体を崩す毒薬)を押し頂き、何度も礼を言って飲み干すお岩をたっぷりと演じていた。
そもそも、伊藤家からの援助への礼を、世間体を気にして渋るのは伊右衛門であり、礼に行くようにすすめるのはお岩である。塩冶家対高家の対立は、武家の義理を重んじるなら無視できないもののはずなのに、お岩はそれをさして気にしている様子もない。
武家の女としてのプライドとは、一人の女としてのプライドの暗喩という一面に重きがありはしないか。武士の娘、侍の女房というのも、言葉が他になかったからではないのか、とも感じられる。

髪もむおどろの此のすがた、せめて女の身だしなみ、かねなと付けて髪もすき上げ、喜平衛親子に詞の礼を。

髪梳きはこのセリフによって始まるわけだが、お歯黒を付け、髪を梳き上げることは、当時の既婚女性の身だしなみではあっても、武家かどうかは問題ではないだろう。
いまわの際のセリフはこうである。

一念とふさでおくべきか。

お家再興とか、亡君の鬱恨を散じ奉らんためとか、そうしたいかにも武家的な動機につながるようなものが、この「一念」にあるようには感じられない。
お岩の一念は、信じた伊右衛門の裏切りと伊右衛門にそうさせたものにまっすぐに向けられている。

ただうらめしきは伊右衛門殿。喜平衛一家の者共も、何あんをんに有るべきや。

そして隠亡堀で、怨霊として現れたお岩のセリフはこうだ。

うらめしい伊右衛門どの、民谷、伊藤の血筋をたやさん。

血統を滅ぼすと言っているのだ。武家社会のモラルを外れたところから出てくるセリフではないだろうか。

だから、お岩が父の仇討ちにこだわるのも、復縁のきっかけとして、伊右衛門がお岩にそう約束したからなのではないか、とも思われもするのだ。
あんた、あの時、約束したじゃない、と、それが言いたいのではないか、と福助の熱演に涙しながら思った。

もしかして?

妻が私に「四谷怪談」を見せてくれるのはこれで三度目である。
怖い話の嫌いな妻にしては奇妙なことだ。
今ごろになって気づいたのだが、もしかしたら妻は、私がこの芝居を好きだから見せてくれているのではなく、別のメッセージがあるのではないか。
つまり、裏切ったらこうなるわよ、という…。
ぶるぶるっ。
そろそろ帰って晩ご飯を作ろう。