『パッチギ!』の上映会

昨夜は早稲田大学で映画『パッチギ!』の上映会がありました。
パッチギ!
話題の映画だったのに見逃していたので、この機会に鑑賞。評判通りの傑作で、たいへん面白く満足しました。
劇中、オダギリ・ジョー演じるヒッピー風の青年が、キング牧師のIHave a dreamという言葉を引いているのを見て、かつてアメリカ映画『I,ROBOT』をレンタル・ビデオで視聴した時のことを思い出しました。
I Robot [VHS] [Import]
『パッチギ』もそうですが、『I,ROBOT』も政治的メッセージ色が濃そうでいて、完成度の高い娯楽作品になっています。アメリカ映画の王道といったところでしょうか。

ロミオとジュリエット

I,ROBOT』の作品内の理解としてシティズンシップについて考えるならば、外から与えられた「絶対の論理」に服従するのではなく、自分の頭で考える者が市民たる人間だと言えるのだろう。
いかにもアメリカらしい模範答案だ。間違ってはいないけれど、それだけでいいのか、っていう感じもある。
そう思って考え直すと、ラストシーンで迷えるロボットたちのキリストとなったサミーが丘の上から何を語るのかが気になった。よもや山上の垂訓か。
自ら思考するロボット、サミーがIHave a dreamとか言うから、てっきり公民権運動にオーバーラップしているのかと思っていたけれども、福音主義+圧政からの解放で、まさかイラク戦争の正当化?と勘繰りたくなったものだ。そういえば『カサブランカ』も戦時中の国策映画だったっけ。
このような感想をもったからといって、私は同作品の娯楽映画としての面白さを否定するつもりはない。同時に政治的意味の層を無視してしまうことにも疑問を感じる。それは『パッチギ!』でも同じことだ。
『パッチギ!』は思い切り単純化してしまえば、反目しあう集団に所属する若い男女のラブ・ストーリーだ。『ロミオとジュリエット』、『ウェストサイド物語』の系譜に位置づけられる物語である。だからといって、『パッチギ!』という映画は敵対する集団AとBにそれぞれ所属する人物aとbの恋愛を描いた物語だ、と言ってしまってよいのかというと、そうでもないように思う。だいいちそんな抽象的な理解は、物語の形式をなぞったにすぎず楽しめもしないではないか。
現実の社会状況を前提として、それをシンボリックにあるいはアイロニカルに寓意したり反映したりする具体的な設定こそが、抽象的な物語と『ロミオとジュリエット』や『ウェストサイド物語』、そして『パッチギ!』の個性を生むのだと思う。そもそも『ロミオとジュリエット』も『ウェストサイド物語』も政治的なニュアンスの濃厚な物語だ。そのような側面に着目して鑑賞する態度を不純なものとして排除したり、あるいはそのような解釈が可能な側面をもつ作品を忌避したりする人がまま見受けられるが、それはちょっといかがなものかと思う。

説明されなければわからないことがある

『パッチギ!』の主人公の少年は、在日朝鮮人たちの苦難に満ちた生活と歴史を知らなかった。それは知らなかったけれども在日朝鮮人のヒロインの美しさに惹かれて一目惚れした。たいていの恋愛にはそうした側面があるし、それで充分に甘美なものだともいえる。
しかし主人公は友人となった朝鮮学校生の葬儀で、死んだ友人の親戚たちから、在日朝鮮人の苦労を知らないものは帰ってくれ、と怒りをぶつけられるように言われる。彼はそこで自分の恋人やその家族たちの生活やその歴史について知らないということを思い知らされる。この場面はテンポよく劇画的に描かれる他の場面と異なり、いささか説明的で、だからこそ印象的だった。
葬儀に集まった人たちから語られる在日朝鮮人たちの苦難の歴史を主人公同様、私も知らなかった。だが、この場面が説明的であるのは、そうした知識・情報を伝えるためにあるのではないだろう。在日朝鮮人の歴史や日本社会における差別を伝えることがこの映画の目的であったならば、映画としてもっと効率的に伝える方法はいくらでもあったはずである。この場面が私にとって印象的だったのは、説明されなければわからないことがあるし、知らないからといって拒絶していてはいつまでも何もわかりあえない、ということを、在日朝鮮人の老人のセリフとは裏腹に伝えていたからである。
かつて『冬のソナタ』がブームとなったときに、『冬ソナ』ファンは韓国のことをろくに知らないくせに、というような陰口じみたやっかみが聞かれた(私もろくに知らない)。もちろんファン層の中核をなす中年女性たちの多くは、甘いマスクのヨン様がジウ姫と織りなすメロドラマに酔いしれていたのであって、必ずしも韓国の文化・社会についての広い理解があって『冬ソナ』を支持していたのではないだろう。だからなんだ、と私は思うのだ。ビートルズファンはビートルズの音楽を生み出したイギリスの労働者階級の社会と文化について何ほどの知識を持っていただろうか。異文化理解の最初の一歩が無知であってなにが悪い。初めは無知でも、ヨン様を追っかけるためにハングルを学んで韓国に行った、『冬ソナ』ファンの方が、何も知らないくせに、と冷笑していた者たちよりも、異文化と接触するとはどういうことかについて理解する可能性がはるかにあるはずだろう。
『パッチギ!』の主人公はヒロインに一目惚れすることで在日朝鮮人社会の一端と関係をもった。接点をもったからこそ、知らない、ということが問題になるのであって、すでに知っていることを知ることの条件とされたら、誰もなにも知ることはできない。知らないということを知ることはすでに知ることの始まりである。誰でもここから一歩を踏み出すしかない。無知の知は無知から始まるのだ。単なる無知を無知の知にするきっかけは一目惚れであったりぶつけられた怒りであったり、その他、誤認や衝突さえ含んださまざまなかたちの遭遇である。知ることや(すでに)知っていることではない。
本を読むということも同じようなものだと思う。あらかじめ読んでいなければ読む資格がないとされれば、誰もなにも読むことはできない。内容を必ずしも直接に反映しているのではないかも知れない、題名や装幀や宣伝文句に惹かれて手に取り、力ずくで頁を切るのが読書の始まりである。
こういうことが監督の演出意図であったかどうかはともかく、私には読書のモデルとして『パッチギ!』の一場面を興味深く鑑賞した。