海幸彦・山幸彦の伝説について

昨日、『古事記』に出てくる海幸彦・山幸彦の伝説について思いつきを書き留めましたが、ふと前から気になっていたことがあったのを思い出して河合隼雄『神話と日本人の心』の該当箇所を読み返しました。

神話と日本人の心

神話と日本人の心

前から気になっていたことというのはプラトンパイドロス』を読んでいるときに気になっていたことともどこかでつながってくることです。

『神話と日本人の心』

『神話と日本人の心』は、日本ユング派心理学の総帥として臨床心理業界に隠然たる勢力を持ち、文化庁長官として「心の教育」推進の旗振り役を務めてもいる著者の日本神話論である。
古事記』を題材にして著者の日本文化論を縦横に展開する本書の叙述は多岐にわたるが、基本的には、日本神話に登場する神々の関係のうちに「中空構造」を読みとる、というスタンスで書かれている。河合は『古事記』冒頭に登場する三柱の神、アメノミナカヌシ、タカミムスヒ、カミムスヒのうち、タカミムスヒとカミムスヒはその後の物語のなかにも登場するのに、アメノミナカヌシは名のみあって具体的な記述のないことに注目する。アメノミナカヌシは対立や葛藤を調和する無為の神であり、中心が空であることによって全体の調和をとる「中空構造」「中空均衡構造」は「『古事記』の神話の基本構造」であり「日本人の心性に反映されている」としている。
さて、海幸彦・山幸彦の伝説について河合氏が説くところを読むと、冒頭は次のように書き出されている。
「ホデリとホヲリの話は、いわゆる海幸・山幸の話として、日本人なら、日本神話をあまり知らない人でもよく知っているであろう。それに、これにはインドネシアから西部ミクロネシアにかけての地域に類話の多いことは大林太良がつとに指摘している。今回はそれらには触れず、その話を『古事記』に従って簡単に述べておこう。」(p267)
私はここでもう引っかかってしまう。河合氏は「海幸・山幸の話」が「インドネシアから西部ミクロネシアにかけての地域に類話の多い」物語であることを述べながら、どうして日本神話としてだけ語ろうとするのだろうか。あるいは、語り得ると思えたのだろうか。それも「『古事記』に従って」。『日本書紀』には『古事記』とはやや異なる物語が記されているし、さらにいくつかの異伝も併記されている。『古事記』の「海幸・山幸の話」にはそうしたいくつものバリエーションの中の一つという性格もある。これは、よく似た話は同じ話か、という問題に関わってくる。
よく似た話は同じ話か、というのは、怪談好きの人なら皿屋敷伝説やタクシー幽霊(消える乗客)を思い浮かべてもらえばよい。似たような(なかにはほとんど同じ)話は日本中にいくらもあり、少なくともタクシー幽霊は中国や韓国にも類話がある。
これは物語のディテールをどこまで削ぎ落とすか、どのレベルまで抽象化・形式化するか、ということにも関わってくる。「海幸・山幸の話」で言えば、「異界訪問譚」+「異類婚姻譚」というレベルまで一般化してしまうと世界中の神話・伝説・民話のかなりの部分が類話ということになってしまうので有効ではない。形式化といってもせいぜい次のレベルまでであろう。
主人公兄弟(親子・姉妹)の仲違い−主人公の共同体からの追放(逃走・逸脱)−異界訪問−異類婚姻(財や力の獲得)−共同体への帰還−仲違いした相手との闘争・勝利−異類との契約を破る−異類との別離
これでも日本内外を問わず、かなりの数の伝説・民話が同パターンの類話として数えられることになるだろうが、まだマシのはずである。こうしたさまざまなよく似た話の中から、ある任意の話(ここでは「海幸・山幸の話」)を特定する基準は、突き詰めていえば人名・地名などの固有名詞だけということになる。当事者性ならぬ御当地性こそがある話を他のよく似た話から区別する重要なポイントなのだ。ただし、皿屋敷については、ここが皿屋敷のあとだという場所は日本中に何カ所もあるし、これがお菊の割った皿だというのも何枚もあるのでお手上げだが。
この続きはまた明日。