戦国時代

萱野が描き出す国家からは、ひどく原始的な印象を受けることがある。例えば次のような文章。

みずからの行使する暴力だけが正当であると実効的に主張しうるためには、国家は社会のなかでもっとも強大な暴力を行使できるのでなくてはならない。とするならば、国家の暴力の正当性をささえるのは、結局のところその暴力が社会のなかでもっとも強いという事態だということになるのではないか。(萱野、p13)

これは要するに国家とは、俺がいちばん強いと宣言して、それを認めないものを片っ端からポカポカぶん殴るジャイアンみたいな奴、ということなのだろうか。俺は正しい、自分こそが正義だ、と言い張り続けていくためには、いやお前は間違っている、と反論するものを黙らせてしまえばよい。それができるためには力が要る。逆に、力さえあれば自らの暴力を正当化することもできる。
萱野は「なぜ国家だけがみずからの行使する暴力を正当なものとして定立することができるのか、という問い」について、ベンヤミン『暴力批判論』を参照しながら、死刑を例に挙げて考えている。

死刑とは、国家による合法的な暴力行使のひとつの極限的なあり方である。ここでの問題は、なぜその殺人は他の殺人とは異なり合法なのか、ということだ。(p19)
死刑における殺人が合法なのは、殺人を行う主体と、合法/違法を判断する主体とが同一であるからである。」(中略)「この一致はもちろん、殺人だけでなく暴力一般にまであてはまる。暴力を合法なものと違法なものとに分割しながら「合法な暴力」を独占的に行使する権利こそが、国家のあらゆる実力行使(逮捕、監禁、強制執行…)をなりたたせる。(p21-22)

俺がお前たちを殴る(殺す)のは正しいが、お前たちが俺に殴り返したり、お前たち同士で勝手に殴り合ったりするのは間違っている、なぜならば殴っていい場合を決めるのは俺だけだと俺が決めたからだ、ということなのだろうか。こんなクソ親父みたいな言い草がどうして言えるのか、ということについては、「暴力の機能をかんがえることで、それを理解することができる。」と萱野はいう。

暴力は破壊し、打ちのめす。しかしそれだけではない。暴力はまた、命令することを可能にする。(p22)
命令とは、みずからの決定を他人に課すことにほかならない。暴力にもとづいた命令とは、だから、暴力的な格差を利用することでみずからの決定を他人に課すことである。暴力的に優位にあるものほど、よりおおきな決定の裁量を手にすることができる。ここにあるのは、暴力と決定との機能的なむすびつきだ。暴力を保持し行使する主体が、同時に決定の権限をもつ主体でもあるのは、暴力そのものの働きに根ざしている。(p23)

その決定が正しいか正しくないのか(正当性の問題)、そもそも誰にそんな決定を下す資格があるのか(正統性の問題)、ということはどうでもよいのだ。俺がこうと決めたからこうなんだ、従わない奴はぶっ殺す、と宣言し、それを実行する力があること。戦国時代の「天下布武」的発想、それこそが国家の本質ではないかと萱野は言う。

なぜ国家だけが暴力を行使する権利をもつことができるのか(中略)それは、国家が社会のなかで他を圧倒しうるだけの暴力を蓄積しているからである。国家がみずからの暴力だけを合法化することができるのは、それがもつ暴力の圧倒的な優位性にもとづく。国家とそれ以外の個人や集団とのあいだにある暴力の格差こそが、国家による合法的な暴力行使の独占を可能にするのである。(p25)

ただ力が強いだけでは国家は成り立たない。暴力の行使が独占されていなければ国家は成り立たない。もし「暴力の格差こそが、国家による合法的な暴力行使の独占を可能にする」のであれば、国家はなによりも平等を嫌うだろう。本能的に、反射的に嫌うはずだ。平等は格差や独占に対立する理念であり、他のいかなる理念よりも平等は国家の本質を損なうだろうから。