牡丹燈籠

こう蒸し暑いと本など読む気も起きないので、落語のCD(『古今亭志ん生名演集十二』)を聴いたりしていた。

八つの鐘が忍ヶ岡に響いて聞こえますと、一際世間がしんといたし、水の流れも止り、草木も眠るというくらいで、壁にすだく蟋蟀の声も幽かに哀れを催おし、物凄く、清水の下からいつもの通り駒下駄の音高くカランコロンカランコロンと聞こえましたから、伴蔵は来たなと思うと身の毛もぞっと縮まるほど怖ろしく、…

幕末から明治にかけて活躍した落語人情噺の名人三遊亭円朝の傑作『牡丹燈籠』から、死霊となっても恋人を慕って冥界より通いつめるお露登場のシーンである。円朝の口演を速記してなったこの怪談は、まさに声に出して読み、耳で聞くべき噺である。岩波文庫版は長らく読みにくい旧版のままであったが、最近の改版では横山泰子氏による懇切な注と解説もついて、ぐっと読みやすくなった(と思ったら品切れ)。
怪談といえば、昨今はホラー映画の影響からか視覚的な恐怖感にうったえるものばかりもてはやされるが、見世物小屋の客寄せに語られるような妖怪談・怪物談ならともかく、本格的な幽霊談は耳で聞いてこそ快い。というのも、考えても見られよ、普通の幽霊とはただの人の姿の幻でしかないからだ。
上田秋成雨月物語』中の傑作「白峰」の崇徳上皇の怨霊が西行法師の前に出現して天下への鬱憤を述べるくだりなどは言うには及ばず、江戸四大怪談の一つに数え上げられ、私などは近世神話とでもいうべきかとすら愚考している「皿屋敷」怪談も「一枚、二枚、三枚…」と皿を数えるお菊の哀しい声がなければ、夜中に洗い忘れた皿を片づけている女中にしか見えないだろう。
私が今では忘れかけられている「皿屋敷」怪談を近世神話とまで言おうと思うのは、中世末期より日本各地に発生し、近世中期にはほぼ全国に伝播したその驚くべき繁殖力による。熟練の精神科医でもあった在野の伝説研究家、伊藤篤氏の遺著『日本の皿屋敷伝説』は、各地の「皿屋敷」伝説を渉猟、そのデータをほぼ網羅し、同氏の地元、九州の「皿屋敷」伝説についての貴重なレポートを含んだ力作である。それにしても惜しい方を亡くしたものだ。

日本の皿屋敷伝説

日本の皿屋敷伝説

幽霊が視覚的な恐ろしさを体得するためには、それまで言葉にして語られていた呪い、恨み、悲しみ、執念を一人の女の顔にみっしりと貼り付けるという江戸歌舞伎の鬼才、鶴屋南北の演出上の工夫が必要だった。「お岩様」で知られる『東海道四谷怪談』である。
ご存じの通り南北の戯曲は元禄の頃に発生した江戸の都市伝説が下敷きとなっており、そこにはなんらかの事実のかけらが含まれているとされている。この点に迫ったのが怪奇探偵小池氏の『四谷怪談―祟りの正体 (知の冒険シリーズ)』であり、今に知られる「四谷怪談」成立の事情を史料に即して手際よくまとめている。
だが、名著『心霊写真』心霊写真 不思議をめぐる事件史 (宝島社文庫)ではその力が存分に発揮された小池氏の実証主義もやや空回りしているのは残念だ。伝説の背景に実体的な事件を求める手法には限界があろう。
鏡の中に醜く変貌した己の顔を認めて

コリヤコレほんまに、わしが面がこのやうな、悪女の顔になんでまあ、コリヤわしかいの、わたしがほんまに顔かいなう(東海道四谷怪談 新潮日本古典集成 第45回より)

と嘆いたお岩様のセリフは、歴史が歴史家に浴びせる皮肉であったかも知れないのだ。
ならばどうする?しんと静まりかえった夜の彼方から心の闇を語り継ぐ何者かの声にじっと耳を澄ますことから始めるほかはない。