ベンヤミン『暴力批判論』7兵役と死刑

『暴力批判論』を2冊持っているというカミングアウトがあいつぐ。
それも市井の素浪人である私とはちがって、学問の研鑽に励む研究者の方々である。
まあ、他人様のことはともかくとして、私の頭は呆けている。四〇才のことを不惑というが、確かに最近、迷いが減った。どうしてかと思っていたが、呆けはじめたからなんだろう。新しいことがわからなくなるうえに、わからなくても生きていけることだけはわかるようになったものだから、呆けはますます進行する。
一つ告白しておくと、私は『暴力批判論』を一度通読している。いま手元にある岩波文庫版ではなくて、書架の奥でホコリをかぶっている晶文社の著作集版で(千歳烏山にあった古書店・十勝書房にて五〇〇円で購入)。栞の位置と書き込みを見ると、少なくとも「暴力批判論」と「破壊的性格」という小品は確実に読んでいたはずである。訳者は同じだし、カントの定言命法に「断言命令」(p41)という訳語を当てたままだから、訳文もたいして変わらないはず。
何が言いたいかというと、何度読んでも難しくてかなわんということ。
さて、ベンヤミンは暴力のもう一つの機能を挙げている。法維持的暴力である。例として、兵役が挙げられている。

ミリタリズムは、暴力を国家目的のための手段として、全面的に適用することを強制するが、この暴力行使の強制はちかごろ暴力行使そのものと同じくらいに、もしくはより以上に強く、非難されるにいたっている。このような強制としてあらわれる暴力は、自然目的のために単純に適用される折りとは、まったく別の機能をおびており、法的目的のための手段として適用されるのだ。なぜなら、法律に−−ここで想定されたケースでは、一般兵役義務法に−−市民を服従させることは、一つの法的目的なのだから。暴力のあの第一の機能が法措定的だとすれば、この第二の機能は、法維持的といってよかろう。(ベンヤミン『暴力批判論』p40)

法維持的暴力としてあらわれる軍事暴力は、殺すことよりも殺させること、殺すための訓練を強いることにある。
ベンヤミンは法維持的暴力の例としてもうひとつ、死刑を挙げている。

じじつ死刑の意味は、、違法を罰することではなく、あらたな法を確定することなのだ。というのも、生死を左右する暴力を振るえば、ほかのどんな法を執行するよりも以上に、法そのものは強化されるのだから。(p43)

兵役と死刑には共通点があるように思う。殺すことと殺されることを命じる、という点である。戦争を想定しない軍隊はないから、兵役とは殺したり殺されたりする可能性を個人に強制する。死刑判決は刑務官に殺すことを、被告人に殺されることを強制する。
いずれも「生死を左右する暴力」の強制であり、それによって法が個人の「生死を左右する」だけの権威をもつことを示し、その権威のもとに「市民を服従させること」を目的とする。
だから、法維持的暴力の本質は、殺すこと、すなわち直接に暴力を振るうことにあるのではなく、「生死を左右する」局面においても法に服従させること、にある。当然これは「生死を左右する」局面に限られるものではない。

兵役義務は法維持的暴力の、原理的にはほかのケースと区別されない一適用ケースなのだから、これにたいする真に有効な批判は、平和主義者や行動主義者の熱弁が想像しているほどには、たやすいものではけっしてない。その批判はむしろ、あらゆる法的暴力の批判、いいかえれば合法的ないし執行的暴力の批判と一致するのであって、これより以下のプログラムをもってしては遂行不可能である。(p40-p41)

これはたいへんなことだ。ベンヤミンに従えば、兵役義務(国防の責務)およびその前提である常備軍の設立や死刑制度に反対することは、「あらゆる法的暴力の批判」でなければ、意味がない、実効性をもたないということになる。「現実のもつ意味は、その領域から「行動」が脱落してしまったら、構成されようがない。」(p41)。

法律や慣例を保護しているものは、じじつ法の権力であって、この権力は、ただひとつの運命だけがあること、まさに実質的なもの、なかでも脅迫的なものが、不可侵のものとしてその秩序に属していることを、その実質としているのだ。法維持的暴力は脅迫的であり、しかもその脅迫は、ものの分からぬリベラルな学者が解釈していう警告の意味をもたない。(p42)

「法律は運命のように脅迫的」なのだという。
だとすると「あらゆる法的暴力の批判」とは、法の運命的性格に対する批判にその焦点があるのではないか。

まだ、ほんの出だしのところだが、また仕事が忙しくなったので、いったん休むことにする。
ちまちま読むのではなくて、ざっくり大意をつかもうとは、何度も決意したが、思考を煮詰めたような文章で、とてもさらっと読んで、ああこんな感じね、というわけにはいかない。
いつか(っていつ?)必ず読み終える(のだろうか?)。

追記

二〇台に読んでわからなかった本を四〇台になって再読してなおわからない。
つまり、私の頭は年齢に関係なく悪いということか。
かつ、二〇年間何も学習してこなかったということでもある。
頭が悪いうえに怠け者、これを世間では愚か者と呼ぶ。