商鞅、移木の信

ベンヤミンに疲れたのでちょっと寄り道。
始皇帝以前に、秦が法治政治を徹底させていたことを示す『史記』の逸話に材を取った文章。

商鞅が秦の孝公に仕えて相になったとき、その新政の第一着手として、先ず長さ三丈の木を市の南門に立てて、もしこの木を北門に移す者あらば十金を与うべしという令を出した。しかし、人民はその何の意たるを了解せず、怪しみ疑うて敢えてこれを移そうとする者がなかった。依って更に令を下して、能く移す者には五十金を与うべしと告示した。この時一人の物好きな者があって、ともかくも遣ってみようという考で、この木を北門に移した。商鞅は直ちに告示の通り五十金をこの実行者に与えて、もって令の偽りでないことを明らかにした。ここにおいて、世人皆驚いて、商君の法は信賞必罰、従うべし違うべからずという感を深くし、十年の内に、令すれば必ず行われ、禁ずれば必ず止むに至り、新法は着々実施せられて、秦国富強の端を開いたということである。
けだし商鞅は、この移木令の一挙をもって、民心をその法刑主義に帰依せしめたものであって、その機知感ずべきものがないではないが、かくの如き児戯をもって法令を弄ぶは、吾人の取らざるところであって、これに依って真に信を天下に得らるべきものとは思われぬのである。そもそも法の威力の真の根拠は、その社会的価値であって、「信賞必罰」というが如きは、単にその威力を確実ならしめる所以に過ぎぬ。木を北門に移すべしという如き、民がその何の故たるを知らぬ命令、即ち何らの社会的価値なき法律を設けて、信賞必罰をもってその実行を期するという態度は、誠に刑名法術者流の根本的誤謬であって、彼ら自身「法を造るの弊」を歎ずるの失敗に陥ったのみならず、この法律万能主義のために、かえって永く東洋における法律思想の発達を阻害する因をなしたのは、歎ずべく、また鑑みるべきことである。(穂積陳重法窓夜話 (岩波文庫)』より)

この文章で穂積は、商鞅法治主義について不公平な見落としをしている。
第一に「商鞅は、この移木令の一挙をもって、民心をその法刑主義に帰依せしめた」のではない。「かくの如き児戯」だけで法令が浸透するほど秦の民衆もお人好しではなかった。
今、手元に『史記』がないので、またまた大間違いをやらかすかも知れないが、確か王子が罪を犯したとき、従来の慣例では王族や貴族の罪は罰せられずにいたところ、商鞅は「それでは世間への示しがつきませぬ」といって、秦王に法の適用を迫り、王はやむなく王子の守り役を監督不行届とかいうことで身代わりに処罰した。
秦の民衆が、商君の法は誰であろうと適用される、と感心して、その法に服したのはこの事件があったからである。だから「何らの社会的価値なき法律を設けて、信賞必罰をもってその実行を期するという態度は、誠に刑名法術者流の根本的誤謬」という穂積の批評は、自分の主張に都合のよいように事の一面だけを強調する誤謬である。
なお「彼ら自身「法を造るの弊」を歎ずるの失敗に陥った」というのは、時が経ち、きついお灸をすえられた王子が国王に即位して反・商鞅派が勢いづき、商鞅は亡命を図ったが、自らが整備した法によって阻止された故事をいう。商君の法は法制定者をも容赦しなかったのである。
これも「法を造るの弊」というより、法というものは、いったん制定されてしまえば、その制定の経緯にかかわらず、法自らを維持するために人々に遵法を求める、という法の性格をよくあらわしたエピソードだと思う。