ベンヤミン『暴力批判論』8ストライキ権と投票権

以下は、id:mojimojiさんからいただいたコメントへのお返事です。
ベンヤミンがいうストライキ権を投票権と置き換えることができるかどうか、私は専門家ではないので分かりかねますが、法措定的暴力は立法にかかわることですから、無関係ではないだろうと思います。とっくに御承知でしょうが、デリダ『法の力』では、ストライキ権についてこう言っています。

ゼネスト」の可能性、すなわちゼネストの権利に匹敵する権利は、およそ解釈しながら読むということのなかにある。すなわち、解釈しながら読むということとは、もっとも強力な権威である国家の権威を支えにして存立している法/権利に異議を唱えることができるという権利全般のことである、と。このときに人がもつ権利というのは、正統性を与える権威や、それの立てる一切の読み方の規範を中吊りにすることのできる権利である。(デリダ、P116)

もしかすると、この異議申し立ての権利全般のなかに投票権が含まれるかどうかは、有権者が投票行動を一つの異議申し立てとして、一種の抵抗権として、もっときつい言い方をすれば法措定的暴力の行使として自覚しているかどうかにかかってくるのでしょうか。これが妥当な解釈かどうか、ちょっと自信がありません。それにしても「正統性を与える権威や、それの立てる一切の読み方の規範を中吊りにすることのできる権利」とは、なんとも暗示的ですね。
なお、ベンヤミンは、いま私がつっかえている所のもっと先の方でこんなことも言っています。

法措定の暴力が、協定のなかに直接に顔を出すまでもなく、そこには暴力の代理人がいる――法的協定の保証をする権力が。この権力は、まさに暴力によって協定の内部に腰をすえたのではない場合でも、もともと暴力的な起原をもっている。ある法的制度のなかに暴力が潜在していることの意識が失われれば、その制度はかえって没落してしまう。現在では議会がその一例だ。(『暴力批判論』p46)
すぐれた議会があることは比較的望ましいことでもあり、喜ばしいことでもあるだろう。だがそうはいっても、原理的に非暴力的な政治的合意の手段を論ずるときに、議会主義を持ち出すことはできない。なぜなら、議会主義が生きた諸問題のなかで何に到達するかといえば、それは起原にも終末にも暴力をまといつかせた、あの法秩序でしかありえないのだから。(『暴力批判論』p47)

どうもベンヤミン本人には議会主義を否定的に捉える傾向があるようです。これには執筆当時の社会状況が背景にあるのでしょう。
しかし、私自身はといえば、それが堕落した暴力だとしても、そして暴力の完全な廃絶は不可能だとしても、むしろだからこそ(デリダっぽい言い方の口真似をするなら、不可能なことの可能性を想定し得るからこそ)、あたかも憎悪の発露にもなる体罰よりは暴力性を自覚しつつやむをえずする懲戒の方がよりマシであるように、比較的望ましい議会主義をめざすほかないように思われるのです。
それは何かなどと問い詰めないでくださいませ。わかっているくらいなら、こんな難しい本などウンウンいって読まずとも気楽に暮らしているはずなのですから。
なお、体罰よりも懲戒の方がよりマシというときの、「よりマシ」についてですが、最悪の方向に行かないために「少しでも良い方向へ戻せるような悪い方向」というid:dd00269968さんの言葉がぴったりくるなあ、と私は思います。
ベンヤミン本人やデリダ本人がどうなのかは別として、ストライキ権と投票権について、私が彼らの著作を読んで得た感想は以上の通りです。これがポパーの議論とどう関係づけられるのか、ポパーを知らない私には判断のつきかねるところです。