ベンヤミン『暴力批判論』13「殺してはならない」という戒律

id:kurahitoさんがどんでん返しがあるというので、もう一度頁を開く。

この神的な暴力は、宗教的な伝承によってのみ存在を証明されるわけではない。むしろ、現代生活のなかにも、少なくともある種の神聖な宣言のかたちで、それは見いだされる。完成されたかたちでの教育者の暴力として、法の枠外にあるものは、それの現象形態のひとつである。(ベンヤミン『暴力批判論』p60)

「完成されたかたちでの教育者の暴力」とはどういうものなのか、具体例が示されていない以上、これについてはなにもわからないが、「この神的な暴力は、宗教的な伝承によってのみ存在を証明されるわけではない。むしろ、現代生活のなかにも、少なくともある種の神聖な宣言のかたちで、それは見いだされる」と言われる以上、ユダヤ教的伝統から切り離されたかたちでも理解されなければならない。

したがってその形態は、神自身が直接にそれを奇蹟として行使することによってではなく、
血の匂いのない、衝撃的な、罪を取り去る暴力の執行、という諸要因によって−−究極的には、あらゆる法措定の不在によって−−定義される。この限りで、この暴力をも破壊的と呼ぶことは正当だが、しかしそれは相対的にのみ、財貨・法・生活などにかんしてのみ、破壊的なのであって、絶対的には、生活者のこころにかんしては、けっして破壊的ではない。

ここで「生活」というのはLebenだろうから、生命、人生でもある。神的暴力は、生命を破壊するのに「生活者のこころにかんしては、けっして破壊的ではない」といわれても、それは特殊な状況では言えることかもしれないけれども、一般論としてはどうだろうか。この限りでは、かのオウム真理教の「ボア」に限りなく近いように思われてならない(以下では、むしろベンヤミンの側に立って考えようと努めるが、この疑問は消えない)。
もちろんベンヤミンにはこうした反論も想定の範囲内で、「このように論を進めれば理の当然として、ときには人間相互の、致命的な暴力までが野放しにされる、と指摘して反論する人も出てくるだろう。この反論は認められない」と言う。

「殺してもいいのか?」

反論を認めないのは結構だが、しかし、この物言いが一つ認めてしまっていることがある。それは神的暴力は殺人をも含む、ということである。ベンヤミンが「反論は認められない」と突っぱねるのは、あくまで「野放しにされる」という点である。

なぜなら、「殺してもいいのか?」という問いにたいしては、確たる答えがあるからだ−−「殺してはならない」という戒律(Gebot)として。この戒律は、神が行為の生起「以前にある」ように、行為の以前にある。

厄介な言い回しである。とりあえずベンヤミンとしては殺人許可証を交付するつもりではないようだ。ただし、これは、神的暴力は殺人を含まない、と言っているわけではない。「殺してはならない」という戒律は「実行された行為にたいしては適用できないものにとどまる」からだ。
この戒律についての「神が行為の生起「以前にある」ように」という形容は、西洋形而上学の伝統を参照させるものと考えられる。第一原因者はその行為の結果によって反照規定されない、主語となっても述語とはならない、というような伝統である。だからこの戒律は、殺してしまった場合でも、殺さなかった場合でも、殺そうとして殺せなかった場合でも、殺すまいとしたのに殺してしまった場合でも、結果の如何にかかわらず、戒律として存在し続ける。

それは行為の物差しではない。戒律からは、行為への判決は出てこないのだ。だからもともと、行為への神の判決も、判決理由も、測り知ることはできないのである。(ベンヤミン、p61)

ここでベンヤミンは、戒律と法をはっきりと分けている。だから、戒律が殺人を禁じているのに、それを処罰しないことをもって戒律は無力であると嘆いてはならない。戒律は法ではないからこそ、法権力=暴力とは無縁なものであり、むしろ、戦争や死刑のように法が殺人を命じるとき、「殺してはならない」という戒律は無力であるからこそ、「ある種の神聖な宣言」として、非暴力的な呼びかけとして法に対峙することが出来る。

したがって、人間による人間の暴力的な殺害の断罪を、戒律から根拠づけるひとびとは、正しくない。戒律は行為する個人や共同体にとっての判決の基準でもなければ、行為の規範でもない。個人や共同体は、それと孤独に対決せねばならず、非常のおりには、それを度外視する責任をも引き受けねばならぬ。そういう意味でユダヤ人は、正当防衛の殺人を断罪することをはっきりとしりぞけた。(ベンヤミン、p61)

「殺してはならない」という戒律が法や規範ですらなく呼びかけであるのは、「個人や共同体は、それと孤独に対決せねばならず、非常のおりには、それを度外視する責任をも引き受けねばならぬ」とされている点からも明白である。行為の当事者には「「殺してはならない」という戒律」を「度外視する責任」があるとは、殺してもよいということではない。許可を与えることができるのは、法であり規範である。「「殺してはならない」という戒律」が呼びかけであるからこそ、そこに応答可能性、すなわち責任が生じる。
「殺してはならない」という呼びかけにどう応答するにせよ不可避であるから、「そういう意味で」あるなら、この責任は「正当防衛の殺人」においても免れることはできない。この責任は決して免除されない。
だからこそ、「ユダヤ人は、正当防衛の殺人を断罪することをはっきりとしりぞけた」のだ、とベンヤミンは考えたのだろう(これが歴史的事実であるかどうかはここでは問わない)。それは、正当防衛の場合、殺人は許されるからではない。「戒律からは、行為への判決は出てこない」以上、こういう場合には許されて、こういう場合には許されない、というのであれば、それは法律の仕事である。殺すか殺されるか、という切迫した場面での決断は、その当事者が「孤独に対決せねば」ならない。

神的暴力とボア

ここで、ボアのことをふたたび蒸し返そう。神的暴力がボアと異なる点は、ボアがグルという(信者にとっての)絶対的権威の承認のもとになされた、ということである。対して、神的暴力は結果として殺人を、「犠牲を受けいれる」にしても、それは法や規範や権威によって承認されたからそうするわけではないし、ある特定の神的暴力の行使が範例となって、法が成立するわけでもない。そうなってしまうならそれは神話的暴力であり、法措定的暴力である。神的暴力は、いつでも一回限りの特異なものであり、その決断において前例はなく、また自ら前例となることもない。
だから、神的暴力の顕現は、事前には予測不可能であり、事後においても法則化や意味づけが出来ない。それは一種の特権的瞬間において生起する。目的や手段や計画などの言葉で語ることも出来るふつうの行為と違って、行うことというよりは起こってしまうことというニュアンスに近いものだろう。
一般論としては語れない。一般論として語ろうとすると、オウム真理教のボアや、「民数記」について私がしたような世俗的解釈、あるいはデリダが指摘したようにナチスホロコーストと見分けがつかないものになってしまう。これは非常にきわどい議論だ。特権的瞬間は、当事者にとっては崇高な瞬間ではあろうけれども、第三者から見れば狂気の瞬間でもある。そしてこの狂気という性格を差し引いてしまうと、特権的瞬間の特権性は失われる。
これを是とするか非とするか、まさに「孤独に対決」することが迫られる。だから、神的暴力によって「人間相互の、致命的な暴力までが野放しにされる」という「反論は認められない」とベンヤミンは言えるのだ。

消えぬ疑問

ただし、私の疑問はなおも消えない。ベンヤミンの物言いは、法的暴力に対する対抗暴力とはいえ、やはり暴力を行使する側に立っての議論である。
私としては「それは相対的にのみ、財貨・法・生活などにかんしてのみ、破壊的なのであって、絶対的には、生活者のこころにかんしては、けっして破壊的ではない」という文言が気になってならない。邦訳で「生活」と訳された原語はLebenである(世俗的啓示による)。日本語で「生活」というと、家計や職業やと関連した「暮らし」というイメージが強い。例えば、上司に「言うことを聞かないと生活を保障しないぞ」と脅されても、なんとかなるさ、と開き直ることは出来るが、医師に「生命の保障は出来ません」と言われればこれは一大事である。
そこでこの「生活」と訳された語を「生命」と置き換えてみるとどうなるか。
「それは相対的にのみ、財貨・法・生命などにかんしてのみ、破壊的なのであって、絶対的には、生命者のこころにかんしては、けっして破壊的ではない」。
日本語で「生活者」というと、庶民、一般市民というニュアンスがある。けれども、ここで語られているのはあくまでも「生命者」、すなわち「生きている者」なのだ。生命は破壊されても、破壊されない「生命者のこころ」とはなんなのか。生命が破壊されても、「こころ」は破壊されない「生命者」とは誰のことなのか? 生き残った者なのか、それとも、死後の生を生きる者なのか?
こうしてみると、ベンヤミンの言う神的暴力はどうしても煉獄の炎のイメージとダブってくる。神的暴力の果てにあるものはなんなのか?

生命の尊さ

−−しかし、ある悠遠の定理なるものを持ち出してきて、戒律をさえもそれで根拠づけた気でいるらしい一群の思想家がいる。その定理というのは生命ノトウトサという命題であって、これをかれらはあらゆる動物的な、さらには植物的な生命に及ぼしたり、あるいは人間の生命に限って用いたりする。(ベンヤミン、p61)

生命はそれだけで尊いのではない。尊さは、そう感じる人間の側から生じる。虫けらのように殺すという言い回しがあるが、昆虫学者にとっては虫けらの命は尊いだろう。その昆虫学者も標本づくりのためには虫けらを虫けらのように殺す。昆虫学者にとって尊いのは、虫の各個体の生命ではなく、その興味の対象であるところの種の存続であろう。
私もカレーを一鍋作るに当たって、かなりの生命を消費している。牛や玉ねぎやジャガイモやニンジンからすれば大虐殺である。まあ、こういうことを言いだしたらキリがないことはわかっている。
すべての生命は程度の差こそはあれ、他の生命の簒奪者である。中学生の頃だったか、光瀬龍百億の昼と千億の夜』や半村良『妖星伝』といった小説でこうした世界観を知ってずいぶん感傷的に考え込んだ記憶があるが、あれから二十年以上生きてみて、この問題には結論がない、が正解だと思うようになった。これも世俗的啓示というやつだけれども。
生命の原罪とも言うべき、生きることそのものの暴力性を下手に理屈づけようとすると、殺される者に「甘美な死」を受けいれさせるか、あるいはすべての生命の消滅を願うほかなくなる。前者は明らかな欺瞞であり、後者は推論の前提に誤りがある。
前者の根性の腐り具合については鼻をつまむしかない。後者について言えば、それは、環境保護のためには人類が滅亡すればよいとか、戦争を全廃するためには人類が滅亡すればよいとか、そういう極論の延長線上にある。より控え目でかつ実践的なものとしては、醜く生きるよりも静かな死を選ぶというものもある。しかしこれらはすべて、生の暴力性と生命とを同一視する点で誤っている。
生命と生の暴力性は不可分だが、しかし同じものではない。もし両者がまったく同一のものだとしたら、不可能なものとしてではあったとしても、暴力なき生を夢見るということは、ありえない。想定することが出来ない以上、それは不可能であるという判断すら出てこないだろう。われわれが、たとえ不可能なものとしてであっても、暴力なき生を夢見ることが出来る、いや、それ以上に、暴力なき生など不可能な夢にすぎない、と否定できるということこそ、生命と生の暴力性の非同一性の証拠である。
閑話休題。確かにベンヤミンの言うとおり、生命の尊さを無条件の善であるかの如く主張することは出来ない。そう主張する者は、すべての生命が他の生命の簒奪者である以上、生命は無条件で善であるからこそ悪である、という矛盾に直面することになる。この矛盾に気づかないふりをすることは、やはり欺瞞である。素朴な生命至上主義に対するベンヤミンの批判は手厳しい。

かれらの議論は、革命が抑圧者を殺すことを引き合いに出した極端な例では、つぎのようなものだ。「殺さないかぎり、正義の世界はけっして築かれぬ、……と、知的なテロリストは考える。……だがわれわれは公言する、存在の幸福や正義よりも存在自体のほうが、ずっと高くにあるのだ、と。」この最後の命題が虚偽であるばかりか、下劣であることは確かだが、同時にそれが、戒律の根拠はもはや殺される者の主体のなかにではなく、神および行為者の主体のなかに求められねばならぬ、ということを示唆することも確かである。(ベンヤミン、p61-p62)

「殺さないかぎり、正義の世界はけっして築かれぬ」とは、テロリストなら知的でなくとも考えそうなものだが、それに対してなされる「存在の幸福や正義よりも存在自体のほうが、ずっと高くにある」という反論はやはりどこかおかしい。この点は同意。だがなにか違和感が残る。引用文の後半は間違いではないか。なぜならベンヤミンは続けて次のようにも言うからだ。

存在がたんなる生命を意味するにすぎないのなら(中略)存在のほうが正しい存在よりも高くにある、という命題は虚偽で下劣だ。けれどもこの命題は、巨大な真理をもふくんでいる、かりに存在が(生命が、というほうがよいが)(中略)「人間」という確たる集合態を意味するものとするならば。そのときにはこの命題は、人間の不在は正しい人間の(むろん、たんなる)未到来よりももっと怖るべきことだ、といおうとしていることになろう。こういう二義性があるから、前記の命題にも、もっともらしさがあるわけだ。(ベンヤミン、p62)

そうそう、だから「存在のほうが正しい存在よりも高くにある、という命題は虚偽」なのだ。「高くにある」のではなく、基底にある。正しさもまた暴力性と同じく、生命に依存している。「人間の不在は正しい人間の(むろん、たんなる)未到来よりももっと怖るべきことだ」。もしこの命題の「巨大な真理」「もっともらしさ」を認めるのであれば、「戒律の根拠はもはや殺される者の主体のなかにではなく、神および行為者の主体のなかに求められねばならぬ」とは言えない。生命は尊いから(あるいは尊い生命は)殺してはならないと言うのであれば、なるほどその根拠は殺す主体の側にある。尊さとは価値であり、社会的・文化的な観念であるから、それは、原則的には他者によってなされる評価に依拠する。だから、その生命が尊いかどうかは、殺す主体の側にある。
しかし「殺してはならない」という戒律は法ではないがゆえに無条件ではなかったか。尊いから生かす、尊くないから殺すということであれば、戒律はもはや法である。戒律が「殺してはならない」というのは、生命の尊さのゆえにではない。生命の尊さを守るために、というのはすでに条件である。だから、生命の尊さという観念はこの戒律を根拠づけられない。
ベンヤミンも生命と生命の尊さ、人間と人間の尊さを分けて考えるが、私とは別の結論に至る。

人間というものは、人間のたんなる生命とけっして一致するものではないし、人間のなかのたんなる生命のみならず、人間の状態と特性とをもった何か別のものとも、さらには、とりかえのきかない肉体をもった人格とさえも、一致するものではない。人間がじつにとうといものだとしても(あるいは、地上の生と死と死後の生とをつらぬいて人間のなかに存在する生命が、といってもよいが)、それにしても人間の状態は、また人間の肉体的生命、他人によって傷つけられうる生命は、じつにけちなものである。こういう生命は、動物や植物の生命と、本質的にどんな違いがあるのか? それに、たとえ動植物がとうといとしても、たんなる生命のゆえにとうといとも、生命においてとうといとも、いえはしまい。(ベンヤミン、p62)

神的暴力は生命を破壊するのに「生活者のこころにかんしては、けっして破壊的ではない」と奇妙なことをベンヤミンが言い得たのはこのゆえだったのである。確かに人間の尊さと人間の肉体的生命は分離できる。ある人間の肉体的生命が断たれても、その個体が生前になした行為の社会的評価、すなわち尊さを保存することはある程度までは出来る。
しかし、これは生き残る者、すなわち殺す者の側からいわれることであり、同じことだが、殺される側には「死後の生」という観念を要請する。つまりいずれにせよ、誰かが生き残るか死後の生を生きているかしなければ成り立たない話なのである。だから、ベンヤミンの考え方は、自らが生き残る側、殺す側にあることを想定した思想である。そこには殺されること、あるいは全滅という発想がない。
核兵器の登場が画期的だったのは、世界最終戦争による紛争の永遠の解決、というアイデアを無効にしたことである。ベンヤミンの神的暴力による国家=法権力の暴力の全廃、という構想も、核戦争による絶滅という可能性を知らなかったからこそ言えることである。

もうひとつ考えておくべきことは、とうとい、とここで称されているものが、古代の神話的思考からすれば罪の極めつきの担い手であるもの、たんなる生命なのだ、ということである。(ベンヤミン、p63)

生命はイコール尊さではない、それはそうだ。そして生命は「罪の極めつきの担い手である」ということにも同意する。だが生命は「罪の極めつきの担い手である」からこそ、イコール罪ではない。両者が等号で結ばれるなら、生命は罪を担う必要がない。生命は罪を担い、同時に「こころ」を担い、尊さを、つまり諸価値を担う。生命は諸価値の高みには立たないだろう。そそっかしいベンヤミンはこのことをうっかり忘れたために、ナチスの支配圏からの亡命が不可能になったと絶望して、自らの「たんなる生命」「とりかえのきかない肉体をもった人格」「肉体的生命、他人によって傷つけられうる生命」を断って自らの「こころ」だけは守ろうとした。だが、アーレントによれば、もう一日待っていれば、彼は同行者とともに国境を越えられたはずだったのである。

まだ続く

文庫本にして残りわずか2頁ほどなのだけれど、このあとまたやっかいな議論が続く。本当は一気に書かないと誤解を招きかねないのだが、これは私の個人的な読書録であるという言い訳をさせてもらって、今日のところはここまで。