老子・孟子・ルソー

前に、老子孟子とルソーを並べて「同じく、自然状態を善きものとして考えている」と考えて屁理屈をこねたが、よく考えてみなくてもこれは間違いだった。
この三者はいずれも自然状態への回帰を志向していて、それぞれ力点の置き方が違っているだけ、と思ったのだが、その力点の置き方こそ大きな違いだった、ということに今さらのように気づいた。
ルソーにとって、あわれみという「自然の感情」を妨げているのは理性と反省である。

人間を孤立させるのは哲学である。哲学のおかげで人間は、苦しんでいる人を見てひそかにこう言うのである。「滅びたければ滅びてしまえ。おれは安全なのだ」。哲学者の静かな眠りをかき乱し、彼を寝床から引き出すのは、もはや社会全体の危険だけである。哲学者の窓の下では、平気でその同胞を殺すことができる。というのは、彼は殺される人と一体になろうとして、彼の心のなかで反抗する自然を妨げるために、耳に手を当て、いささか理屈をこねまわせばよいのである。(ルソー『人間不平等起原論』p72-p73)

余談だが、学生時代に他学科の先輩から、この文章ではなくパスカル『パンセ』の章句か何かを引いて、キミねぇ哲学っちゅうのは哲学を否定することなんだよ、と説教されて、余計なお世話だと思ったことを思い出した。アンタの専攻ではどうかは知らないがウチではそれは常識だ、とのどまで出かかったが、うわべでは年長者を尊敬してやまない私はグッと呑み込んだ。
それはさておき、理性や反省が自然なあり方を抑圧したり歪めたりしているという発想は老子にも共通する。「大道廃れて…」はもとより、前にも引いた次の章句がそれである。

聖を絶ち智を棄つれば、民利百倍す。仁を絶ち義を棄つれば、民孝慈に復す。巧を絶ち利を棄つれば、盗賊あることなし。この三者は、もって文にして足らずとなす。故に属する所あらしむ。素を見し樸を抱き、私を少なくし欲を寡くす。

なお、「此三者、以為文不足、故令有所属」は読み方がいろいろあるようで、小川環樹氏は「此の三つの者は、以て文とするに足らずと為ん、故に属する所有らしめよ」(『老子』中公文庫)とし、金谷治氏は「此の三者、以て文足らずと為す、故に属ぐ所あらしめん」(『老子講談社学術文庫)とする。「文」は「あや(彩・かざり)」だとする小川氏の注釈にも魅力を感じるが、前後の文のつながりから私は金谷氏の訳を取る(ただし素人の印象であって根拠はない)。
一方、ルソーや老子には顕著に見られるこうした理知的なものへの懐疑は孟子にはない。ジュリアンが引いた、井戸に落ちそうになる子どもの例のあと、孟子は次のように言う。

あわれみの心は仁の芽生え(萌芽)であり、悪をはじにくむ心は義の芽生えであり、譲りあう心は礼の芽生えであり、善し悪しを見わける心は智の芽生えである。人間にこの四つ(仁義礼智)の芽生えがあるのは、ちょうど四本の手足と同じように、生まれながらに具わっているものなのだ。(『孟子』上、岩波文庫、p141)

思いやりが人間の自然な感情である点では孟子はルソーと一致するが、孟子にとっては義・礼・智も仁と同じように生得のもの(人の是の四端あるは、猶其の四体あるがごときなり)であり、ルソーが考えたようにそれらの間で対立が起こるとは想定されていない。
しかし、孟子とルソーは、自然状態を善きものとする点で老子とは決定的に異なる。老子にとっても自然状態は回帰すべきものであり、この点ではルソーと軌を一にするが、ただしそれは人間的な善ではない。この点を私は見落としていた。
ちょっと眠くて混乱してきたので整理しておくと、自然状態への回帰を志向するという点では老子はむしろルソーに近い。孟子はあわれみから出発して仁義礼智という文化状態を目指している。
しかし、自然状態を人間的善の萌芽であるとみなす点でルソーは孟子に近い。ただし、老子の自然、すなわち「道」は、人間的な善悪を超越したものとして考えられている。
三者を比較して言えるのはとりあえずこういうことだろう。