民主党案はまだマシか2パターナリズム

savaさんが驚いてくださったので調子に乗ってもうひとつ。
教育における価値観の多様性の保証についての民主党の矛盾はいたるところであらわれている。同党は一九九八年四月発表の「基本政策」で「教育の地方分権を進めるとともに、価値観や能力の多様性を認め、自立した青少年を育てる教育改革を推進する」としている。これは言葉を換えて言えば、パターナリズムからの脱却、ということになるだろう。

ジェンダーフリー教育バッシング

しかし、民主党所属の都議会議員の中には、パターナリズムとカタカナ表記するのも気がひけるほど露骨に家父長制的価値観を唱えて性教育ジェンダーフリー教育批判を繰り広げている人物がいる。性教育は性的自立支援のための教育であり、ジェンダーフリー教育は多様な価値観が共存するための教育である。これを攻撃するとは自らの所属政党の基本政策がわかっていないのではないか。
もっとも性教育ジェンダーフリー・バッシングに対しては、〇五年五月二五日付で出された民主党『次の内閣』ネクス男女共同参画担当大臣小宮山洋子議員(当時)の談話「男女共同参画基本計画の改定に向けた「中間整理」について」で次のような「危惧」が表明されている。

しかしこの間、用語の誤解や一部の事例によるものと思われますが、男女共同参画政策全般に対する反動が生じていることは極めて残念です。とりわけ学校教育の現場でようやく定着しはじめた、発達段階に応じた適切な性教育に対する批判は、学校現場での戸惑いを生み、正しい知識の普及をなお遅らせるのではないかと危惧されます。

また、民主党中間報告には、与党案要綱でばっさり削除された男女共学について次のようにしている。

第五条(男女共学)
 男女共同参画の理念を教育基本法の中にも位置づけるべきとの意見が有力であった。

こうした点を見れば、民主党が党として男女平等を否定していないことはわかるのだが、外野から言わせてもらえば、跳ねっ返りを残念がってばかりいないで、まず足元から「誤解」を正し、「正しい知識」を普及させるべきだろう。

学校を監視社会の拠点へ

また、昨年の都議選の際、民主党都連が配っていた「あなたとつくる「東京マニフェスト」TOKYO Manifest 2005」と題されたパンフレットには、学校の安全対策として、警察官を都内の全小学校に常駐させる、とあった(その後、撤回されたようだが、私が渋谷区の路上で受けとったパンフには確かにそうあった)。これは自治体レベルだけの話ではなく、教基法改正論議でも教育の場の安全の確保を盛り込むべきだという議論があり、第二条(教育の方針)につぎのような文言を盛り込もうとしている。

(安全の確保)
 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において、かつ、充分な安全への配慮と実質的な安全の確保に万全を期しておこなわなければならないとの意見が有力であった。
(国民の安全確保義務・自発的努力)
すべて国民は子どもの生命・身体・健康の安全の確保に最大限努めなければならず、併せて、教育目的達成のためすべての国民が自発的努力を行う旨規定すべきとの意見が有力であった。
これらと連動して、学校安全法(仮称)、小児事故防止法(仮称)の制定および学校保育法の充実などが必要であるとの意見があった。

それって、教育の方針とはいいませんから。
これもまたパターナリズムといわなければならない。
同パンフレットには校長を民間から公募する、という案も掲げられている。かくも民活のお好きな民主党だから、学校を犯罪から守るために民間の警備会社に警備を委託しよう、というのであればまだ話はわかる。そうはならないのは警察官の学校常駐の目的が、大阪・池田小事件のような犯罪から子どもたちを守ろう、ということだけのためではく、小学校を地域の治安維持の拠点としよう、という発想と抱き合わせで提案されているからだ。
教育の場である学校、それも少年犯罪や校内暴力といってもたかがしれている小学校を、武力によって犯罪を取り締まることを役割とする警察権力に活動の拠点として提供することは、監視社会化を徹底するだけではなく、教育上も「力こそ正義だ」というイメージを子どもたちに注入するマイナスの効果がある。
おまけに教員にとっては、学校の安全という担保を警察に取られた格好になるし、保護者にとっては子どもを学校と警察とに二重に人質に取られたかたちになるから、地域社会の権力依存度が格段に高まることは請け合いである。
こうした明らかな反動が「教育基本法の理念を評価し、さらなる具現化、発展を目指し」た結果だとはとても思えない。「21世紀の教育のあり方について」から大幅に後退どころか、民主党の掲げる政治理念に照らしても「時代の変化に逆行」している。その後の四年間、民主党はなにをやっていたのだろうか? そしてトンデモな中間報告から一年、民主党はなにをやってきたのだろうか?
このように民主党の教育政策は、多様性をめざすとしながら、国民の価値観の画一化を謀り、自立した国民を育てるとしながら、パターナリズムを振りまわす。自己矛盾と言うべきか、羊頭狗肉と言うべきか。今後の教育基本法改正についての対応ではこうした理念と政策のねじれが解消されていることを望むが、期待はできない。
以上、教育基本法改悪問題について、野党第一党民主党案を検討してきたが、これと与党案要綱のどちらかを選べといわれても、「ウンコ味のカレーか、カレー味のウンコか」というジレンマの前で鼻をつまむほかない。

学習者主権論の可能性

ただし公平を期すために言い添えると、民主党が与党とまったく同じ議論をしていたとは思わない。〇五年五月十一日には民主党の「次の内閣」はこの「中間報告」について協議し、「愛国心」という言葉は国家主義に通じるという理由からこれを用いず、別の表現を検討するとした。言葉だけ変えても考え方が変わらなければ中身は同じだが、前述の「21世紀の教育のあり方について」には、「人権を守るためには、コミュニティー、国家、国際社会の構成員としての自覚と責任をはぐくむ教育が必要」との主張もあり、国家主義的にならない別の表現を、という声は、こうした人権重視の考え方から出てきた可能性もある。
中間報告にも、新教育基本法制定の目的の「5.国際条約・国際宣言等で、その実現のために必要な国内法の整備を行うため。」として次のような記述がある。

・「世界人権宣言」「子どもの権利条約」「女性差別撤廃条約」「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する条約」「国際人権条約社会権規約自由権規約)」「障害者の機会均等化に関する国際標準規則」「サマランカ宣言」「教育における差別を禁止する条約」などのより実質的実施のための国内関連法整備などが必要との指摘があった。

この立場からは教育に関する権利は社会を構成するすべての成員に保証されるべき幸福追求権とされるはずだから、公教育の権利は学習者の側に帰され、国家は国民に教育を受ける機会を提供する責任を負うことになる。
こうした考えを受けてか、民主党中間報告には現行法にも与党案要綱にもない、次のようなアイデアが盛られている。

(学習権)
 我が国には、教育権が国家にあるのか、国民にあるのかという、いわゆる教育権論争が長年行われてきた。最高裁はあいまいな判断を下してきているが、国民主権の本旨に立ち返り、また、国際的にも国民の学習権説をとる国も多いことなども参考にし、我が国においても、すべての人々が学習権を有し、そのための充分な支援を受けられる旨、明記することが望ましいとの意見が多数を占めた。

もっとも民主党で有力な「人材育成」という教育観は、個人を何かの目的のための材料とみなすわけだから、人権の考え方と相容れないので楽観は禁物だが、もしこれからの民主党が学習者主権論に含まれる可能性を模索していくのであれば、それが最善かどうかは別として、与党・文科省に対する一つの選択肢を示すことはできるだろう。
だが、なにぶんにも時間がない。それにこんなトンデモな放言を羅列した文書をもって中間報告としているようでは、これからの議論も危ぶまれる。困った話だ。