ハイデガーのご奉仕

ハイデガーは嫌いだが、id:sava95さんが取り上げているのを見て、ついつい読んでみた。
ハイデガーについては、大学にはハイデゲリアンと呼ばれる熱烈なファンたちがいて、よくもまあそんな細かいことまで、と驚くほどの研究を積み重ねている。
私はといえば、学生時代にハイデガーを講じておられたのが世にもおっかない先生方だったので授業はさぼりっぱなし。おまけに、哲学はドイツ語に限るとか書いているのを読んで以来、(ドイツ語ができなかったので)すっかり興味を失い読むのをやめてしまった(ドイツ屋さんだけでやって、みたいな)。
だから、ハイデゲリアンから見れば私はサル同然である。サルにできるのは写経のみ。
以下、『30年代の危機と哲学 (平凡社ライブラリー)』p112-p114より抜粋。

全ドイツ学生の決意性、ドイツの命運をその逼迫のきわみにおいてもちこたえんとする決意性から、大学の本質にいたるひとつの意志があらわれるのだ。この意志が全ドイツの学生をして、かれらじしんを新たな学生の権利を通じかれらの本質の掟のもとによらしめ、それによってなによりこの本質を限定するならば、この意志は真の意志である。おのれ自らに掟を課すこと、これこそ至高の自由である。口先だけの〈アカデミーの自由〉は、ドイツ的大学から放逐されるであろう。−−なぜならこの自由は不当であった、否定のみをこととしていたからだ。それはとりもなおさず、意図や傾向の恣意・放縦、行動やふるまいの無制約を意味していた。ドイツの学生における自由の概念は、いまや真理へと回帰せしめられるのだ。そこから全ドイツの学生の努めと奉仕が開けてくるのである。
第一の努めは、民族共同体への献身である。この民族共同体は民族のあらゆる階層や構成員の辛苦・努力・能力をともにささえ、ともに行なう義務を課すものである。この努めは、今後、勤労奉仕によって、確固としてドイツの学生の現存に根づくものになろう。
第二の努めは、他の諸民族のただなかにおける国家の名誉とさだめにかかわるものである。そこに要求されるのは、知と能力とで保証され、訓練によってひきしめられた、究極的な献身の用意である。将来、この努めは国防奉仕のかたちで、全学生の現存を包括し、浸透するものとなる。
学生の第三の努めは、ドイツ民族の精神的負託にかかわることである。ドイツ民族がおのれの命運に就くのは、自分の歴史を、人間の現存がもついっさいの世界建設の威力のしめす明るみへなげこむときであり、かくて自らの精神世界をつねに新たにかちとるときである。おのれ自らの現存の、疑わしさのきわみにさらされつつ、この民族はひとつの精神民族たらんと意志するのだ。この民族は、おのがこととして、統率者および庇護者にたいし、もっとも高度で広汎で豊かな知のきびしい明晰さをもとめるのである。学生たる青年層は、あえて若年にして成人たるものに伍し、その意志を国の将来の歴史にまで及ぼさんとしているがゆえに、かれらはおのれ自らに根底より、この知への奉仕を強制するのである。