原ファシズムの特徴・補足『反ファシズムの危機』

セルジョ・ルッツァット『反ファシズムの危機―現代イタリアの修正主義
ちょっと先方の都合で待たされているので、『永遠のファシズム』といっしょに読んでいた本のことなど。
自虐史観という言葉が流行語になって以来、マスメディアやインターネットでトンデモ科学ばりのオレ様史観(歴史修正主義)が大手を振っている。
トンデモ史観といっても、個人の妄想レベルのオレ様史観から政治的な意図のある国家レベルのオレ様史観までさまざまであるが、代表的なものは近代史における自国政府の政治的過失をなかったことにするレトリックである。これはなにもわが国だけのことではなく、ドイツの歴史家論争で問題にされた「アウシュビッツはなかった」論は有名なトンデモ史論だ。日独とともに枢軸を組み、第二次大戦の敗戦国となったイタリアでもファシズムの名誉回復(言われているほど悪くなかった論)がマスメディアを通じてさかんに主張された。
本書は、イタリアの若い歴史家による,イタリア版歴史修正主義論争を概括した好著。取り上げられているのは、日頃あまりなじみのないイタリア近代史と現代政治であるが、ていねいな訳注に助けられながら読みすすめていくと、これは日本でいうとアレだな、と面白いほどに共通点が見つかった。歴史認識問題は特殊日本的なものではないということだろう。
以下、同書より、ベルルスコーニ政権の時代について抜き書き。

そして何よりも、何百万ものイタリア人が、最良の政治とは反政治なのだと思いこまされてしまったのである。その結果、代表権や代理権をめぐる闘争、団体間や政党間の妥協、中央政府と地方名士たちとの交渉など止めちまえということになり、かわりにもろ手をあげて賞賛されるのが、選挙民への百パーセントの直接委任状の要求、リーダーと市民が結ぶ契約の信頼性の強調、独力で成功した男の出世物語へのポピュリズム的な投資、さらには、有能な指導者をたぐいまれな指導者にしうるいくばくかの狂気である。これらはみな、真の歴史家たちが教えるように、ファシズムの理論と実践の常套句である。
ルッツァット、前掲書p121-p122より。

まだ連絡がないのでもう少し。

近い将来、イタリアの国外で、そしておそらく国内でも、敵は別の名前と別の顔をして現れるだろう。まだ命名されていないその新しい「主義」は、おそらく、愛国的な回帰運動に神秘的な息吹が混じり、市場の宗教に文明の衝突イデオロギーが混じったものとなるだろう。それはある種の「民主的全体主義」となって、経済のグローバル化と世界の政治的、文化的な西洋化とを一致させることを要求するだろう。その結果、戦争があいつぎ、それは市民の自由をますます制限し、私的なものにしてゆくだろう。このような状況のなかで、そして一方では、民主主義の脆弱さがアメリカの神殿内部ですら明白になりつつあるときに、わたしたちイタリア人の理解する反ファシズムが、古くさいばかりか、周辺的で二次的な遺産となりかねない事態を認識しないでいられるだろうか?
ルッツァット、前掲書p135

そういえば『憲法九条を世界遺産に (集英社新書)』という本があった。中沢新一吉本隆明ばりに(たぶん真似して)「大衆」にこだわっているのがおかしかった。