戦前の教育改革についての三木清の感想

もう一冊、これは神保町の古本屋で『三木清全集〈第15巻〉評論 (1967年)』を買った。
社会時評などの短文をまとめた巻。これがけっこう面白い。
例えば、「現在の教育を見て最も痛切に感じられる事は教育の権威が失はれていることである」と書き出される「教育の権威」と題された文章(昭和十二年)では、当時の文部大臣の更迭に引っかけて、教育行政の無節操ぶりを批判しているが、

教育は国家百年の大計などといはれるやうに、その時々の政府の都合に支配せられるべきものではなくして、将来の国民を作る立場から考へられるべきものである。(前掲書、p208、原文の漢字は旧字体

とか、

今日の教育界の多くの人は日本国民の体位が悪くなつたとか、青年の志操が堅固でないとかいふ様なことに就いては色々非難してゐる。これは政治家なども言ってゐるのであるが、かういふ国民を作つたのは一体、誰の責任であるかといふことに就いて自分の責任と考へなければならぬのに、責任が他にある如く考へてゐる人が多くあるのではないかと思ふ。(前掲書、p210、原文の漢字は旧字体

などは、ちょっと言葉を変えれば、いまでも十分通用する。
また、「教育改革は近衛内閣の重要政策の一つであるが」と書き出される「教育審議会への期待」と題された短文(昭和十二年)は、従来の教育改革が「いはば技術的な点、純制度的な点が多かつた」のに対して、この度の改革では指導精神が問題になるだろうとして、次のような懸念を表明して結ばれている。

しかるに今日改革が行はれるとすれば、勢ひ政治思想が強く働いて来るのではないか思はれる。これは自然のことであるが、危険もまたそのうちに含まれるのである。率直に云へば教育のファッショ化の生じ易い傾向が多分に存在するのである。
教育の政治化、教育と政治との相克といふことは近頃の最も重大な問題である。この点について教育審議会は十分に思慮を尽くすべきであつて、一時の政治的風潮に支配されてしまつて国家百年の大計を忘れ、次の時代を負ひ、来るべき時代を作る国民の養成において遺憾のないやうに最も留意すべきである。(前掲書、p221、原文の漢字は旧字体

ついでにもう一つ。
これなども、ちょっと言葉を変えれば、いまでも十分通用する。

我が国の教育のうちにも次第に変化が生じつつある。このとき著しく目立つことはそのドイツ模倣である。勤労奉仕といひ、種々の行進といひ、ドイツ流のものが甚だ多い。(前掲書、p300)

これなども、ちよつと言葉を変へれば、…いや、これくらいにしておく。
いずれも思想家三木清の固有の主張といふよりは、一人の時代観察者としての文章である。
これらをみると教育論議とは、よほど進歩のないジャンルのやうである。

引用がうまくいかない

ようで、何度か試しましたが、めんどくさいのでそのままにしておきます。そのうちなおるでしょう。