「姥捨山論争」について非論理的な前置きをだらだらと

ようやく急ぎの仕事が終わって一息ついたので「姥捨山論争」について何か書こうかと思いましたが、どうも気が乗りません。いろいろな人がいろいろなことを言っているけれども、そんなにガミガミ言うようなことかなあ、と思います。
ちょっと前置きが長くなりますが、x0000000000さんの最初の問題提起(http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070406/1175824830)で私が連想したのは次のようなことです。
これは「君がそれをしないのは出来ないからじゃなくてやる気がないからだ」というようなよくあるお説教ではない。
人は誰でも何かしらを犠牲にして生きている。その意味で道義的に無垢な立場にある人などいない。これは当たり前のこと。まず、その事実を確認しよう、ということが第一。
x0000000000さんは、そのことを示そうとして次のような例を挙げています。http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070409

たとえば、私がコンビニで200円のおやつを買おうとするという状況を想定する。

目の前に、募金箱がある。そこには「アフガニスタンの人達は、4人家族で200円あれば1日暮らしていける」と書かれてある。

それでも、その文字が目に入りながらも、私はおやつを買うとする。

このときに、私が「募金できない」と言うのは端的に誤っている、ということである。ただ単に私は「募金しない」だけである。

かくいう私も、昨日、買い物に行った駅前で、中学生くらいの可愛らしい少女が二人、声を張り上げて、交通遺児のための募金を集めていましたが、無視しました。「無視した」、というのは正確な表現ではありませんね。ちゃんと視認しながら、かつその訴えに耳を貸しませんでした。なんの感慨もいだきません。せいぜい、余裕のある人からもらって頂戴、ということです。
しかし、それは、私が交通事故による悲劇になんの責任もないからではありません。自家用車も社用車ももたず、ふだん、自動車を運転しないとはいえ、バスやタクシーや宅配便などの交通機関の利用無しには私の日常生活は成り立ちません。交通事故が起こりうる社会制度の恩恵を受けている以上、私は、何らかの意味で交通事故に責任がある。
他の例を挙げたっていいのですが、面倒なのでしません。ともかく、こうしたことは無数にある。そのすべてについて良心の呵責を感じていたら、とても生きてはいけない。x0000000000さんさんだって、すべてについて深く恥じ入れ、責任を感じて割腹せよ、と言っているわけではない。それとは全然別のことを言っているわけです。

これは、「正論の倫理学」なら主張するであろう、「その200円を募金すべきだ」という主張とは全く違う。

何々を「すべきだ」という主張とは全く違う」んです。

次に、こういうことが話題になると(今回の論争にも端的にあらわれていますが)不可抗力だの、実現可能性だの(「しない」のではなく「できない」のだ)を主張しようとする人がでるけれども、それは二義的な問題である、ということが第二。
ぜひとも、やりたい、、あるいは、やるべきだけれども、どうしても出来ないことはたくさんあるし、逆に条件や能力があってやれば出来ることでも、なにかの都合でやらないことだってたくさんある。私たちは出来ることのすべてをしているわけではない。
逆に、とうてい出来そうもないけれども、なんとしてでもやりたいこと、やるべきことも、ある。出来るわけがないと思われていたことでも、なにかの拍子に実行してしまったりすることもある。
こういう生活上の事実が、倫理を語る場面では忘れられがちであることを思い出すこと、それが、「しない」を「できない」と言うのはやめよっか、ということだったのではないかと思うのです。
能力だの条件だの実現可能性だの、という話はそのあと、やりたいこと、やるべきことはたくさんあるけれども一人の人間がそのすべてを一挙に実現することはとうてい出来そうもない、優先順位をつけなければならないがさてどうするか、という段階で問題になることです。
だから、x0000000000さんは言うわけですよね。

「私が苦しむがいやだから他人を見捨てるのだと、言えばいいのではないか」、と。

たいていの人はふだん偽善を毛嫌いしているくせに、どうしてこれが言えないんだろう、と思っちゃいますね(それとも本心では偽善、好きなのかな)。
でも、x0000000000さんは、他人を見捨てずに自分で苦しめ、と言っているわけではないですよね。すべての人が殉教者のような深刻な顔をして世界に対する責任をその肩に担え、と独善的な道徳的糾弾者のようなことを言っているわけではない。
ここでは自分可愛さが理由になっていますが、「私が苦しむがいや」は、「国体護持」でも「革命の大義」でも、なんだっていいわけでしょう。本気でそういうのを信じている人もいますからね。
「科学の進歩」とか「世界平和」とか「社会福祉の向上」のために誰かを見捨てる人だっているかもしれない。自称・リアリストの好きな「救命ボート」問題の応用編のなかにはそんなのもありませんでしたか。
ところで、命がけで人を救おうとした人たち、例えば、駅で線路に落ちた人を助けようとして亡くなった留学生さんとかカメラマンさんとか、自殺しようとした人を止めようとして亡くなったお巡りさんとか、ああいう人たちが、すべての街頭募金に応じていたでしょうか。私は必ずしもそうではないのではないかと思います。
逆に、先だってこんな事件がありましたよね。http://news.livedoor.com/topics/detail/3129558/

 調べでは、植園容疑者は、昨年8月3日午後9時20分ごろ、福井駅を出発した直後に、6両目の前方から2、3列目にいた女性の隣に座り、「逃げると殺す」「ストーカーして一生付きまとってやる」などと脅し、繰り返し女性の下半身を触るなどしたという。さらに、京都駅出発後の午後10時半ごろから約30分間にわたり、車内のトイレに連れ込み、暴行した疑い。女性は車両前方のトイレに連れて行かれる途中、声を上げられず泣いていたが、付近の乗客は植園容疑者に「何をジロジロ見ているんだ」などと怒鳴られ、車掌に通報もできなかったという。

被害者の女性を見捨てた乗客たちのなかには、ふだんは街頭募金に積極的に応じている人もいたことでしょう。200円どころか、万札くらい出しているかも知れない。40人近くいたそうですから、中にはそういう人がいたとしてもおかしくはないでしょう。
この場合もおそらく、できなかったんじゃない、しなかったんです。電車男2号になれたかもしれないのに!でも、しなかった。
そして、自分が死ぬかもしれないのに、人を助けようとした人もいる。これは、出来た、のじゃなくて、した、のです。
この両者の間には、深くて険しい谷がある、と考えたら大間違いでしょう。どちらも同じような人間のはずです。
人は、なすべきこと・した方がよさそうなこと(逆に、するべきではないこと・やると損をしそうなこと)があっても、時と場合によって、したり、しなかったりする。そのことを、出来た・出来なかった、という言葉で語ってしまうと、「「本当は、出来るでしょう?」という声を封殺してしまうこと」になり、いくらでも言い訳ができてしまう。それは「嘘つき・欺瞞」だからやめよう、倫理的な思考はそこから始めるしかない、というのは、あまりにも当然なことなので、いったい何を騒いでいるのだろう、と呆け中年は思ったです。
閑話休題
さて、前置きはこのくらいにして、ここからが本題なのですが、言わぬが花ですね。

ブログ軍師にこういわれました

諸葛亮曰く
「『姥捨山論争』だけはお止め下さい!
アドセンス狩りに遭いますぞ!」