ただの「考え中」ではない

マスコミなどでのアンケートというものの扱い方について、いつも感じる疑問がある。
例えば読売新聞の「着床前診断、筋ジス患者の38%が賛成…協会調査」と題された記事はこうなっている。
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20070527i501.htm

 生命の選別につながると賛否両論がある「着床前診断」について、筋ジストロフィー患者の約4割が、賛成していることが、日本筋ジストロフィー協会が2005年に実施した調査でわかった。

 26日に東京都内で開かれた日本遺伝カウンセリング学会で報告した。

 筋ジストロフィーは、遺伝子の異常による病気で、全身の筋力が衰える。日本産科婦人科学会は、筋ジストロフィーの中でも「デュシェンヌ型」などは、遺伝子を調べ正常な受精卵を選んで子宮に戻す着床前診断の実施を承認している。

 調査では、回答した1292人の患者のうち、着床前診断に賛成は38・0%、反対は16・9%。「わからない」が39・9%おり、態度を決めかねている人も多い。

(2007年5月27日3時8分 読売新聞)

この場合に限らず、改憲の是非など、他のアンケートでもそうだけれども、往々にして「わからない」または「態度保留」、あるいは「その他」(アンケート実施者が用意していなかった選択肢)が一番多いにもかかわらず、賛成か反対かのいずれかのうち、回答数が多い方を新聞の見出しに掲げることが多いのはおかしな習慣である。
この記事の場合、見出しは「着床前診断、筋ジス患者の約4割が「態度保留」…協会調査」、本文は「調査では、回答した1292人の患者のうち、着床前診断に「わからない」と慎重な姿勢を示している人が39・9%ともっとも多い。ついで賛成も38・0%、反対も16・9%いた。」が妥当なところだろう。
「わからない」の大切さがわからない新聞記者には困ったものだ。
このアンケートで、患者は「あなたは生まれてこない方がよかったですか?」と問われている。患者はそのことをはっきりと自覚しているだろう。けれども、おそらくは記者にはそこがわかっていない。だから、「わからない」はあまり意味のない態度保留としか映らなかったのではないか。
試みに「あなたは生まれてこない方がよかったですか?」という質問を、他の人々にもしてみるがよい。誰も彼もが、生まれてきてよかった、と答えると思ったら大間違いである。
難病患者ならずとも、わが身の不遇を嘆き、世を呪うことはある。
生まれてこのかた人生バラ色の日々の連続だという人ならいざ知らず、こんなことなら生まれてこない方がよかった、と思ったことのない人などごくわずかだろう。
試しに、失恋したばかりの人や事業に失敗して無一文になったばかりの人などに、同じ質問をしてみればよい。
ただ、たいていの人は、日常の忙しさのうちにそのことを忘れてしまうのに対して、難病患者や、その他の長期的に続くだろう深刻な問題を抱えている人は、自分は生まれてきてよかったと言えるのだろうか?という問いを、忘れていられる時間が少ないというだけのことである。
ふつう、幸福の絶頂にいるのでもなく、不幸のどん底にいるのでもない人が、「あなたは生まれてこない方がよかったですか?」と問われて、即座に賛否を明らかに出来るとしたら、それはよほど堅い信念の持ち主か、世間一般程度にも物を考えない軽薄な人物かのどちらかだろう。古諺に、禍福はあざなえる縄が如し、とあるように、「わからない」と答えるのが当たり前なのだ。
むしろ、治療法の見つかっていない難病の患者たち(人によっては不幸のどん底とは言えないかもしれないが、少なくとも幸福の絶頂にいるわけではない人たち)の約4割もが「わからない」と答えたことの意義を重くとりたい。
これはただの「考え中」ではない。
難病患者が、自分は生まれてきてよかったと言えるのだろうか?と自問する機会と時間は、他の人より圧倒的に多く長く、また知的遊戯ではないので切実である。
賛成と答えた人にしても、自暴自棄な気持ちからではなく、この苦痛を将来の世代にまで味わわせるには忍びない、という思いからであろうし、反対と答えた人も、お気楽に暮らしているわけではなく、病苦を耐え忍ぶ生活であるにもかかわらず人生に意義を見いだしてのことだろう。
そして、たいていの人は、この苦しみは耐え難いという思いと、それでもこの生にも意義を感ずるという思いとの葛藤のさなかにあると察せられる。その葛藤をそのまま表現するとしたら、選択肢の中からは「わからない」しか選びようがないではないか。
だから、「わからない」という回答がいちばん多かったことこそ、もっともニュース価値が高かったろうに、と思うのだが。