養沢神社

週末に、五日市憲法で有名な五日市郷土館を訪ねた。五日市憲法関連展示はとても小さく、正直言ってガッカリした。
まあ、それはそれとして、行った甲斐はあった。五日市憲法起草の中心人物、深沢権八の写真が見られた。美男子なのである。
土方歳三に似てるなあ」と思っていたら、資料館の庭に天然理心流継承者の碑があった。新撰組の名とともにしか知られていない多摩の田舎剣法である。この五日市のあたりでも盛んだったらしい。
現在の風景からは想像もつかないが、幕末から明治の初めにかけて、多摩の若者はやたらと元気だった。
京都まで上って暴れ回った新撰組世代の次世代が、五日市憲法を起草した自由民権運動世代であり、地域はややずれるが秩父困民党、田中正造、と続く。
いったい何があったんだろう、などと思った。
五日市郷土館見学のあと、せっかくここまで来たのだからもう少し近所を見物していこう、と、妻のリクエストで大岳鍾乳洞へ。これがたいへんだった。
バス停から上り坂、採石場があるため砂埃の舞い上がる道を30分。
500円払ってなかにはいると、私では屈まなければ通り抜けられない細い洞窟で、足元と頭上ばかり気になって奇岩など鑑賞している余裕はない。それでも3回くらい頭をぶつけた。阿部寛の苦労が思いやられる。
ほうほうのていで一周して外に出てきたら、帰りのバスの時間が迫っている。これを乗り損ねると、次の便は2時間後。大急ぎでもと来た道を引き返す。デブの私は汗だくになってしまった。
帰路は下り坂だったのが幸いしてか、バス停に到着してから10分ほど時間が余った。
バス停の正面にある養沢神社を拝観。私にはこれが面白かった。
石鳥居と狛犬の間に石造りの龍の彫刻が2体、これは非常に珍しい。
拝殿の戸には、よくある名言を書いた紙が貼ってあるのだが、それが孔子老子関羽なのにはぶったまげた。
拝殿に向かって右手に、小さな稲荷社があるのだが、狐の像の片方が子狐をあやしているのも、ないわけではないが珍しい。
帰宅してからネットで検索してみると、養沢神社は、偽書東日流外三郡誌』で偽史マニアには有名なアラハバキ神を祀っているようだ。
アラハバキとは何か、備忘録として谷川健一白鳥伝説〈下〉 (集英社文庫)』(p117)から引いておく。

一、もともと土地の精霊であり、地主神であったものが、後来の神にその地位をうばわれ、主客を転倒させられて客人神扱いを受けたものである。
二、もともとサエの神である。外来の邪霊を撃退するために置かれた門神である。
三、客人神としての性格と門神としての性格の合わさったものが門客人神である。主神となった後来の神のために、侵入する邪霊を撃退する役目をもつ神である。

いちいち思い浮かぶことの多い定義だ。
このあたりにはヤマトタケル伝説があちこちにあり、古代世界において、大和朝廷と東国の勢力がせめぎあった場所である。名を奪われた敗者の土着神がアラハバキと名付けられ、門神(境界神)として祀られたということはいかにもありそうなことだ(神話的暴力による境界の措定の一例)。
また、五日市のあたりは、いまでこそ釣り堀とキャンプ場くらいしか思い浮かばないのどかなところだが、かつては交通の要所だったらしい。養沢神社からさらに奥へ行けば奥多摩の山々だが、この山を尾根づたいに越えれば埼玉の秩父にいたる。今ではハイキングコースになっているが、江戸時代までは立派な道路網だったろう。養沢神社のある場所は、五日市の玄関だったわけだ。
住民にとっては外来者を迎え敵対者を監視する、旅行者にとっては旅路の安全を祈る、サエの神とはそういう性格のものだ。
国学系の神道家が卒倒しそうな孔子老子関羽の言葉といい、竜神といい、皇統に連ならない神を祀る人の心的世界の産物なのかもしれない、などと感じた。