フッサール『危機』メモ、第五節−2

フッサールヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)』を、私はうかつにも初めから読んでいなかったようなのだ。
学生時代にこの本を教えてくれた先生の講義では、もっぱら中盤のガリレオ論が主だったので、怠惰な学生だった私は、試験に出そうなところだけ拾い読みしていたらしく、まことに恥ずかしいことに、フッサールがこの本で歴史の中の人間性の危機ということを問題にしようとしていたことに気づいていなかった。
いま気づいたのだからよかったようなものの、せめてもう少し若い頃に最少から通読しておけばよかったのにと悔やまれる。
フッサールは、哲学の危機とは近代的人間性の危機であると繰り返し力説していたが、それがいかなる危機であるのかは次の文章で明らかになる。

形而上学の可能性に対する懐疑、すなわち新たな人間の指導者としての普遍的哲学への信頼の崩壊は、古代人がドクサに対立させたエピステーメーの意味に解される「理性」への信頼の崩壊を意味する。理性とは、存在すると思われているもののすべて、すべての事物、価値、目的に究極の意味を与えるものである。ここで意味というのは、哲学のはじめから、真理−−真理自体−−ということばと、それと相関的に、存在者−−オントース・オン−−ということばで呼ばれているものへの、すべての事物、価値、目的の規範的関係のことである。こうして、世界がその意味を得るところの「絶対的」理性への信頼、歴史の意味への信頼、人間性への、人間の自由への信頼が崩壊するのである。人間の自由とは、人間の個体としての存在、また普遍的人間としての存在に理性的意味を与えうるという人間の可能性にほかならない。(p32)

すべての事物、価値、目的の規範的関係=意味、を与えるものとしての「理性」への信頼の崩壊。これはいわゆるニヒリズムである。フッサールは、実際にそうであったかどうかは別として、これこそが「事実学はわれわれの生存の危機にさいしてわれわれになにも語ってくれない」という、若い世代が抱いた「敵意に満ちた気分」の原因だろうと感じていただろうと思う。

いつのばあいにも、真の存在とは、ドクサのうちにあっては問われることなく「自明的」とされているもの、つまり単にそう思われているだけの存在に対立する理想的な目標、すなわちエピステーメーの課題、「理性」の課題なのである。だれでもが根本においては、自己の真実で真正な人間性に関わるこの区別を知ってはいる。目標としての、課題としての真理もまた、日常性のうちにあってさえ、人間にとって無縁なものではない。ただそこでは孤立化し、相対化しているにすぎない。(p32-p33)

最近は統制理念というようになったらしい「目標としての、課題としての真理」という真理観にもとづいた理性主義の再建、これがフッサールの目指すところだったように思う。

パトチカはどう思ったか

フッサール『危機』のもととなった講演をリアルタイムで聴いていた当時の「若い世代」の一人、ヤン・パトチカはどう思ったのだろうか。去年の暮れに買って積ん読になっていた『歴史哲学についての異端的論考』から、パトチカの言葉をいくつか書き留めておく。

フッサールは、目的論的連関としてのヨーロッパ史について語っているが、その連関の基軸は、理性的な洞察とそれに基づいた(即ち責任のある)生という思想である。(p91)

ギリシア以来の理性主義のヨーロッパ的伝統について、パトチカは別の箇所で「エドムント・フッサールの言葉を用いて、臆見を洞察によって制御するのであり、その逆ではない、と公式化することができる」(p139)といっている。
また、パトチカはフッサールの「目的論的理念の発展と漸次的実現としての歴史」という構想について、「一見したところ、この概念は、啓蒙・光を生の唯一の源泉とする素朴な啓蒙主義的合理主義を復興するように思われる」が「フッサール現象学は、啓蒙主義的合理主義よりもヘーゲルの合理主義を想起させる」とも言っており(p92)、これは私もなるほどなと思った。

ヨーロッパを世界の指導的地位から引きずり下ろした第二次世界大戦の前夜に、フッサールが歴史の現象学的概念を含む著作を書いたというのは、皮肉である。同時に、第二次世界大戦がヨーロッパの科学と技術を地球的規模の連結の輪にしたというのは確かである。しかし、この輪になったヨーロッパ文明とは、フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機(と超越論的現象学)』が、それが堕落したものだということを示し、そこで意味の喪失、即ちフッサールによれば、ヨーロッパの内的で精神的な本質を成すところの意味付与的で目的論的な理念の喪失に至ったということを示した形態の文明なのである。(p92-p93)

この歴史の皮肉について触れた後、パトチカは「現象学は歴史を本質的なものと見なすことができず、歴史を自らの主要なテーマの一つとすることができない。方法論的な面でも素材的な面でも、そこに歴史の基本的概念全体が現れることはない」(p93)と、かつての師に対して、実に厳しい批評をする。

我々が歴史を、何か自由な行動や決定のようなもの、あるいはその基本的な前提として理解するとしたら、フッサールの発生は、超越論的なものだとしても、またまさに超越論的なものであるが故に、先入観がなくて公平無私な観察者、即ち上述の意味で本質的に非歴史的な主観性の反省において捉えられる構造しか知らない、と言わねばならない。現象学の現象、即ち、それ自体現れるものの「通俗的」な現象ではなくて、それを可能にする隠れた前提の深い現象が、超越論的な発生の中にあるとすれば、彼の理解は、公平無私であるが故に根本的に「非歴史的」な主観性を前提する、と言わねばならない。

『危機』を耳で聞いたパトチカは、晩年のフッサールの構想を引き継ぎながら、歴史というテーマについては、なお工夫の余地有り、と考えていたらしい。
パトチカについては、まだ(ようやく)読み始めたばかりなので、またあらためてメモする。