パトチカ1

暮れに買ったパトチカ『歴史哲学についての異端的論考』をぽつぽつ読んでいるが、たいへん手強い。
歯が立たないというほどではないけれど、パトチカという人の思索の癖のようなものがよくつかめない。
だが、また、繁忙期が近づいてきたので、今のうちに読めるところまで「あらびき」流で強引に読みすすめてみる。
例えば、文明論的なものならわかりやすいかと思って手を付けた第五章「技術文明は堕落したものか? そして、それはなぜか?」。これについてはデリダ『死を与える』で論じられているが、とりあえずはそれは棚上げにして、パトチカ自身の文章を読む。
冒頭は「一九世紀と二〇世紀は工業文明の時代」だと語り出され、ローマクラブを引き合いに出して工業文明への懸念が語られるところまでは、定石通りと言っていい。そこから、ありきたりのテクノロジー批判へいくのではなく、技術文明は堕落したものか? そして、それはなぜか?」という「表題によって示された問いに答えることができるようになる前に、堕落や肯定的な状態を判定する基準、尺度について合意しておかねばならない」というのもわかる。

堕落しているのは、内的な働きの神経自体を失った生、最も本来的な核において混乱し、それ故に十全な生であると想定しながら現実には自らの一歩一歩の歩み、一つ一つの行為によって空虚化し麻痺していく生である。堕落しているのは、その働きによって堕落した生に至る社会、自らの存在の性格によって人間的でないものに耽る生に至る社会である。
しかしながら、一見十全で豊かなところでそれ自体を麻痺させる生とは、どのようなものであろうか?その答えは、問いそのものの中にあるに違いない。(前掲書、p159)

ここまでも、豊かな社会における人間の自己疎外、と言ってしまえば、ああそうか、よく聞いた話だなあ、と思わなくもない。

この疎外のプロセスは人間に属するはずであるし、人間自身の存在の仕方に基づくはずである。つまり人間は、人間にとって疎外が自分自身の存在よりも何か「より快く」て「より自然」であるというふうに存在するのである。自分自身の存在は決して自明ではなくて、自明なのは常に、能作・遂行である。しかしながら、この意味で、疎外も結局のところ能作・遂行だと言うことができる。それは「安堵」であり、「自然な」軽さではなくて、ある種の「行為」の結果である。(p160)

ここまではなんとかついていける。「人間は、人間にとって疎外が自分自身の存在よりも何か「より快く」て「より自然」であるというふうに存在するのである」なんていうくだりは、言い得て妙だなあ、と感心したりもする。
ところが、この次の段落になると、もういけない。

人間は人間以外の存在者の自明性の中に存在することはできず、自らの生を遂行し、担わねばならず、それを「済ませ」ねばならず、それと「折り合わ」ねばならない。そうすると、あたかも等価な二つの可能性の間にいるかのように見える。しかしながら、実際はそうではない。疎外が意味するのは、等価なものは存在しないということ、ありうる生のうちの一つのものだけが「真の」もの、本来的なもの、代替不可能なものであり、我々が実際にそれを担い、その重荷と同一化しているという意味において我々によってのみ実践されうるものだということである。−−それに対して、もう一つのものは回避であり、逃避であり、非真正さと安堵への逸脱である。それ故に「選択」の観点、決断主義は常に既に偽りであり、外側から客観化された客観主義的な眼差しである。実際の「眼差し」は非等価物であり、それにとって、担い、自らを「さらす」責任と、安堵や逃避との相違は、本質的なものである。それ故に、人間の生の現実は、外側からの眼差し、「公平無私な観察者」の眼差しを許さない。(p160-p161)

「人間は」「自らの生を遂行し、担わねばならず、それを「済ませ」ねばならず、それと「折り合わ」ねばならない」というのは、何となくわかるような気がする。けれども、「人間以外の存在者」というのが広すぎてピンとこない。なんだろう?
ああ、これは「人間は、人間にとって疎外が自分自身の存在よりも何か「より快く」て「より自然」であるというふうに存在するのである」の「自分自身の存在よりも何か「より快く」て「より自然」である」をさしているのかな。
そうであれば、「人間以外の存在者の自明性」とは、疎外態のことだろうか。
そこで、これにフッサール『危機』の文章を並べてみる。

いつのばあいにも、真の存在とは、ドクサのうちにあっては問われることなく「自明的」とされているもの、つまり単にそう思われているだけの存在に対立する理想的な目標、すなわちエピステーメーの課題、「理性」の課題なのである。だれでもが根本においては、自己の真実で真正な人間性に関わるこの区別を知ってはいる。目標としての、課題としての真理もまた、日常性のうちにあってさえ、人間にとって無縁なものではない。ただそこでは孤立化し、相対化しているにすぎない。しかし哲学は、この日常性という前形態を乗り越える。古代哲学は、存在者の全体に関する普遍的な認識という大胆な理念を把握し、それを自己の課題とすることによって、最初の独創的な創建をおこない、そこでこの乗り越えを果たした。(フッサール、p32-p33)

こうすると、なんとなくわかるような気もする。
「人間以外の存在者の自明性」とは、「ドクサのうちにあっては問われることなく「自明的」とされているもの、つまり単にそう思われているだけの存在」(フッサール)を踏まえていると仮定してみる。
「人間は」「ドクサのうちにあっては問われることなく「自明的」とされているもの」の中に存在することができない、それは「だれでもが根本においては、自己の真実で真正な人間性に関わるこの区別を知って」いるからである。だから「それと「折り合わ」ねばならない」。
「真正な人間性」は、ドクサに「対立する理想的な目標、すなわちエピステーメーの課題、「理性」の課題」であり、両者の間には緊張関係がある。
だが、パトチカはフッサールとはやや違う方向に議論を進めていく。
人間は「あたかも等価な二つの可能性の間にいるかのように見える。しかしながら、実際はそうではない」(パトチカ)。

疎外が意味するのは、等価なものは存在しないということ、ありうる生のうちの一つのものだけが「真の」もの、本来的なもの、代替不可能なものであり、我々が実際にそれを担い、その重荷と同一化しているという意味において我々によってのみ実践されうるものだということである。−−それに対して、もう一つのものは回避であり、逃避であり、非真正さと安堵への逸脱である。それ故に「選択」の観点、決断主義は常に既に偽りであり、外側から客観化された客観主義的な眼差しである。実際の「眼差し」は非等価物であり、それにとって、担い、自らを「さらす」責任と、安堵や逃避との相違は、本質的なものである。それ故に、人間の生の現実は、外側からの眼差し、「公平無私な観察者」の眼差しを許さない。(p160-p161)

ここでは「「真の」もの、本来的なもの、代替不可能なもの」と「回避であり、逃避であり、非真正さと安堵への逸脱」が対比され、両者は等価ではないことが述べられる。等価であれば、疎外は疎外ではない。単なる(どちらでもよい)選択である(どちらでもよいような選択が選択の名に値するかどうかは別として)。
パトチカは別のところでこうも言っていた。

我々が歴史を、何か自由な行動や決定のようなもの、あるいはその基本的な前提として理解するとしたら、フッサールの発生は、超越論的なものだとしても、またまさに超越論的なものであるが故に、先入観がなくて公平無私な観察者、即ち上述の意味で本質的に非歴史的な主観性の反省において捉えられる構造しか知らない、と言わねばならない。現象学の現象、即ち、それ自体現れるものの「通俗的」な現象ではなくて、それを可能にする隠れた前提の深い現象が、超越論的な発生の中にあるとすれば、彼の理解は、公平無私であるが故に根本的に「非歴史的」な主観性を前提する、と言わねばならない。(パトチカ、p93)

パトチカが「人間の生の現実は、外側からの眼差し、「公平無私な観察者」の眼差しを許さない」というときの「「公平無私な観察者」の眼差し」とは、フッサール的な視点を指しているわけだ。
そうすると、「非等価物であり、それにとって、担い、自らを「さらす」責任」があるような「実際の「眼差し」」によってとらえられる「「真の」もの、本来的なもの、代替不可能なもの」(パトチカ)とはなにか。それはおそらく「だれでもが根本においては、自己の真実で真正な人間性に関わるこの区別を知ってはいる」ような「理性の課題」や、統制理念にも似た「目標としての、課題としての真理」(フッサール)とは別のものなのだろう。
「人間の生の現実」は、外側からではなく内側から、「先入観がなくて公平無私」ではなく、その現実にどっぷり浸かっている地点から、その現実を自ら担い、その現実を見る眼差しに自らをさらす責任を持つような、歴史的な主観性によって捉えられなければならない、そうパトチカは言っているのではないか。

真正なものと非真正なものとのこの区別と並んで、もう一つの区別が必要である。
真正/非真正は、我々が自分自身の存在に無関心ではいられないということに基づく。即ち、我々は常に自分自身の責任に捕えられ、占領されている。つまり、我々が「決定する」よりも前に我々について決定されているのである。真の、本来的な存在は、我々が存在するすべてのものを−−それを歪めたり、その存在とその性格を否定したりすることなしに−−それが存在するままに存在するままの仕方で存在させることができるということにある。(パトチカ、p161)

ここで、「真の、本来的な存在」というのがなんなのか、やはり神か自然を連想してしまう。
また「決定」という語のニュアンスも難しい。
我々は、いわばフリーハンドで、何者でもないものとして行為を始め、無から自分を創り出していくわけではない。我々はすでに何者かである。何者かとして遂行する。我々がすでに何者かであること、それは我々に先立つものへの応答であり、行為に先立って責任が生じている。
そんなように読める。