パトチカ2

再び、フッサール『危機』より。

いつのばあいにも、真の存在とは、ドクサのうちにあっては問われることなく「自明的」とされているもの、つまり単にそう思われているだけの存在に対立する理想的な目標、すなわちエピステーメーの課題、「理性」の課題なのである。だれでもが根本においては、自己の真実で真正な人間性に関わるこの区別を知ってはいる。目標としての、課題としての真理もまた、日常性のうちにあってさえ、人間にとって無縁なものではない。ただそこでは孤立化し、相対化しているにすぎない。しかし哲学は、この日常性という前形態を乗り越える。古代哲学は、存在者の全体に関する普遍的な認識という大胆な理念を把握し、それを自己の課題とすることによって、最初の独創的な創建をおこない、そこでこの乗り越えを果たした。(フッサール、p32-p33)

ここでフッサールは「日常性」を、エピステーメーに対するドクサ、あるいはその「ドクサのうちにあっては問われることなく「自明的」とされているもの」に対応させている。「しかし哲学は、この日常性という前形態を乗り越える」とフッサールは言うが、パトチカは、先生、そんなに簡単なものではないと思いますよ、と言いたいらしい。
もちろん、フッサールの見解を単純に否定しているのではない。パトチカは別のところで、フッサールの言う古代哲学の「最初の独創的な創建」について、「フッサールの言葉を用いて、臆見を洞察によって制御するのであり、その逆ではないと公式化」した上で、「世界のすべての文化の中で唯一ヨーロッパ文化だけが洞察の文化であり」(パトチカ、p139)、「魂の配慮は、ヨーロッパを創り出したものなのである。−−この命題は、誇張なしに支持することができる」(p140)と言い切っている。これは悪評のある『危機』第6節の全肯定である。
このように大筋でフッサール歴史観を支持した上でなお、パトチカはフッサールの挙げなかった要素を付け加える。

しかしながら更に、日常の「毎日」と特別な祝日との間に相違がある。特別な祝日もまた安堵を与えるが、しかしそれは責任からの逃避によってではない。生の重荷とそれからの逃避が問題なのではなくて、我々が心を奪われているような生の次元、我々の自由な可能性、我々の責任よりも強い何かが生に浸透して、そうでなければ知られない意味を与えるように思える生の次元を開示することによってである。それは、魔的なものと情熱の次元である。その両方において人は危険にさらされている。(パトチカ、p161)

日常性に対して、祝祭・特権的な時間・デモーニッシュなもの(「魔的なもの」は適訳とは思えない)・パッションが対置される。これは、エピステーメー/ドクサ、や、真正/非真正、といったフッサールの設定した対立軸とは違う対立項をつくりだす。ハレ/ケと言えるようにも思う。

世界はただ我々にできることの領域だけではなくて、ひとりでに我々に開かれて、(例えばエロティックなもの、性的なもの、魔的なもの、聖なる恐れについての)経験として我々の生に浸透して生を変化させることのできるものの領域でもあることを、我々は経験する。この現象に直面すると、我々は自分自身をめぐる闘いの次元全体、責任をも逃避をも忘却し、あたかも今ようやく我々の前に本当の生が立ち現れたかのように、そしてあたかもこの「新しい生」が責任の次元について全く配慮する必要がないかのように、新しくて開かれた次元に引き入れられる傾向がある。(パトチカ、p161-p162)

若い頃、何年か、心霊体験の聴き取りをしていたことがあった。心霊体験などというと、よく、それは当人の心の問題で、といって片づけたがる人がいるが、実際の当事者によく聞いてみると、自分の心の内から霊的なイメージがわき上がってきて、などという人は滅多にいない。たいていは、ふと気づいたら、思いもかけずに、「それ」は訪れる、そう感じている人の方が多い。これはもちろん、聴き取りをしている私の側に、自分の心の内から思い描くのであればそれは体験ではなく想像であろう、という予断があってのことではあるけれども、この予断を不当だとは私は思っていない。
ただ、パトチカの言う「あたかもこの「新しい生」が責任の次元について全く配慮する必要がないかのように、新しくて開かれた次元に引き入れられる傾向」が見て取れたのは、意外に少なかった。単に不思議な体験をしたという人は多いが、それが「新しい生」のきっかけになったとまでいう人は、やはり何らかの意味付けをしていた。意味づけるものは、宗教であったり、シュタイナー主義やニューエイジのような神秘思想であったりする。実際、ニューエイジ関連の本にはこの手の話がたくさん出てくる。
あるいは、一目惚れ的な過度の恋愛感情もこの中に含めてもよいかもしれない。ありふれた出会いが、なぜ運命の人になってしまうのかは他人にはうかがい知れない機微である。
神秘体験にしろ、恋愛にしろ、そうした非日常性によって開かれる「新しい生」が、ある種の開放感、晴れやかさを伴うとともに、なりふりかまわず対象に没入させることは確かだが、それが「責任の次元」とどう関係するのだろう?

それ故に、神聖/世俗の次元は、真正・責任/逃避の次元とは異なる。それは逃避とは別の方法によって責任と関係づけられなければならないし、単純に圧倒されえず、責任ある生に組み入れられなければならない。(パトチカ、p162)

「責任の次元」「責任ある生」とはなんのことか、どうも、いわゆる社会倫理とは違うように思えるのだが、よくわからない。