パトチカ6

これはパトチカの想定していることとは違うかもしれないが、魔法の世界を思い浮かべている。
言葉通りの魔法でもあれば、イメージによる魔法も、恋の魔法、金の魔力、権力の魔力、いろいろあろう。何かに取り憑かれて我を忘れ、全能感にひたるということは特別なことではなく、私達の人生の一コマとしてよくあることではないのか。
ただそれは、たいてい一時の夢で終わる(「日常性/非日常性が意味しうるのは、我々が平凡さを免れたということである。しかし、だからといって我々はまた既に、「我」という言葉が神秘的な示唆によって示すような、自分自身の十全でかけがえのない存在に到達したと言えるであろうか?」)。
正確なタイトルは忘れたが、「魔法使いの弟子」という民話が、確かあった。駆け出しの魔法使いが、師匠が留守の間に魔力を使うが、コントロールできずに困り果てるという話だった。エヴァンゲリオンもシンクロ率が高すぎると暴走するのであった。
それはともかく、パトチカは次のように言う。

歴史的な生が意味するのは、一面では前史的生の混乱した日常性の分化、分業、個人の機能化である。他面では、聖なるものの内面化によって、つまり我々が聖なるものに外的に没頭するのではなくその本質的な基礎に内的に向き合うことによって、それを内的に支配することである。(パトチカ、p165)

型どおりに呪文をおぼえただけではダメなのである。「内面化によって」「その本質的な基礎に内的に向き合うことによって、それを内的に支配すること」ができなければ、われわれは「エロティックなもの、性的なもの、魔的なもの、聖なる恐れ」、すなわちオルギアに振り回されてしまう。

まさに、歴史は第一にこの内的な出来事を意味し、真にユニークな我が発見されることによって人間の可能性の原初的なジレンマを統御する人間の発生を意味するという理由から、それは何よりも魂の歴史である。それ故に、歴史はほとんど初めから歴史への反省に伴われており、それ故に、ソクラテスは歴史の本来の場である共同体を魂の配慮の場としているのである。(パトチカ、p166)

この後、パトチカは、オイゲン・フィンクのプラトン解釈に沿って考察を進めているのだが、あいにくフィンクの書が手元になく、たとえあっても未邦訳なので語学がからっきしダメな私にはどうしようもない。ただ、「プラトンの新しい思想は、母なる大地の子宮を放棄して純粋な「光の道」に進もうとする、つまりオルギア的なものを責任に完全に従属させようとする、意志である」(p168)という文があることから、パトチカはフィンクのプラトン解釈のうちに、これまでも繰り返し出てきた、責任によるオルギアの統御というモチーフを確認しているということは見てとれる。

魂の不死についてのプラトンの教説は、オルギアと責任との直面の結果である。責任はオルギアに勝利し、それを従属的な契機として、エロスとして取り込む。エロスは、その起源が肉体的な世界、洞窟、暗闇の中にあるものなのではなく、単に絶対的な要求と厳格な規律を伴う〈善〉への上昇の手段にすぎないことを理解しないうちには、非常に長い間自分自身のことが分からない。(パトチカ、p168)

ここにいたって、ようやくパトチカの構想が見えてきたような気がする。古代宗教のオルギアは、エロスとして内面化される。エロスはもはやオルギアの猛々しさを失い、より高いもの、〈善〉のイデアへの憧憬、渇仰として、〈善〉を目指す力として、主体に服従させられる。

 このような概念の結果として、新プラトン主義においては、魔的なもの−−エロスは大デーモンである−−が、そのあらゆる誘惑を克服した真の哲学者の眼差しの中で従属的な領域になるということが、起こった。ここから、やや予期しない帰結が出て来る。即ち、哲学者は同時に大まじない師だということである。プラトン的哲学者は魔術師であり−−ファウストである。(パトチカ、p169)

エロスは古い神の名だった。『神統記 (1984年) (岩波文庫)』には、カオスやガイアとともに登場する。ほとんど最初からいた神と言っていい。
太古には神々として崇められていたものを使い魔として服従させることができるのが大魔術師である。魔術師は、自らは取り憑かれることなく、魔を人に取り憑かせる。取り憑かれたときは負けである。魔に食われることになる。
金は使っても使われるな、酒は飲んでも呑まれるな…、ちょっと下世話にすぎるか。
この後、パトチカは、一転して死の克服について語る。

更なる重要な契機は、プラトン的哲学者は、死の前から逃げ出さずに死と直面し続けることによって、本質的に死を克服したということにある。彼の哲学は、死の配慮であった。魂の配慮は死の配慮と分かちがたいものであり、後者は真の生の配慮となり、(永遠の)生は、この死の直視から、死の克服から生まれる。(恐らくこの「克服」以外の何物でもない。)しかしながらそれは、〈善〉との関係と共に、〈善〉との同一化と魔的なものやオルギア的なものからの脱離と共に、責任の支配と、したがって自由の支配を意味する。魂は絶対的に自由であり、即ち自らの運命を選ぶのである。(パトチカ、p169)

秘儀について、ディオニュソスのケースをエリアーデによって見たが、エレウシスの密儀というものもあって(エリアーデ世界宗教史2』第十二章)、どうやら死と再生を疑似体験するものだったらしい。古東哲明によれば、プラトンの記述にもエレウシスの密儀の影響を見て取ることができるという(『現代思想としてのギリシア哲学 (ちくま学芸文庫)』p214-p226)。

こうして、真なるもの、責任あるものと、例外的なもの、オルギア的なものとの二重性に基づいて、光に満ちた新しい神話が成長する。オルギア的なものは除去されるのではなくて、統御され、従属的なものにされる。(パトチカ、p169)

ある種のビルディングスロマンを連想する。敵を自分の中に取り込んで成長していくような、少年マンガによくある成長のストーリー。ヘーゲル弁証法にもよく似ている。
パトチカが語っているのは、はもちろん歴史哲学なのでもあろうけれども、個人史の哲学という気もする。ヨーロッパ文明の歴史を、成長する人格に見立てて記述しているようにも思える。