羊頭狗肉

羊頭狗肉」の語源を調べたら、思わぬものが出てきた。
この四字熟語はそれほど古いものではなく、宋代の公案集『無門関 (岩波文庫)』が出典だという。パラパラめくっていたら「六 世尊拈花」に出てきた。
世尊拈花は、禅の話によく出てくるエピソードである。

世尊、昔、霊山会上に在って花を拈じて衆に示す。是の時、衆皆な黙然たり。惟だ迦葉尊者のみ破顔微笑す。世尊云く、「吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り。不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す」。

ここまでは、いわゆる「拈花微笑」の話として、どこかで引用されているのを目にしたことがあった。今回、驚いたのは、この話の典拠(大梵天王問仏決疑経)が、中国の偽経だと注されているのを読んだからだ。禅宗の仏教としての正統性を物語る逸話が、偽作だったとは!
もちろん、口伝で継承されていた話を経典作者が書き留めたのではあろうけれども、それにしてもインドまでさかのぼれないとは驚いた。
しょせん大乗経典は、と嗤う人もいるかもしれないが、インド製と中国製ではやっぱり事情が違う。
驚いたのはこれだけではない。「羊頭狗肉」は、この世尊拈花の公案への無門の評釈に出てくる。これは現代語訳で引く(p45-p46)。

無門は言う、「金色のお釈迦様もなんと独りよがりなものだ。善良な人間を連れ出して奴隷にするかと思えば、羊の肉だなどと偽って狗(犬)の肉を売りつけなさる。とても並みの人間に出来る芸とは言えぬ。だかしかし、もしもあの時その場の大衆が皆な一斉に微笑んだとしたら、正法眼蔵とやらいう結構なものをどのように伝えたであろうか。また逆に、迦葉尊者を微笑ませ得なかったとしたら、それをどのようにして伝えたであろうか。そもそも正法眼蔵というようなものが伝達できるとすれば、お釈迦様は一般大衆を誑かしたことになる。また伝達できるものでないとすれば、どうして迦葉尊者だけに伝授を許されたのであろうか」。

冒頭のみ読み下しも引いておく。
「黄面の瞿曇、傍若無人。良を圧して賤と為し、羊頭を懸げて狗肉を売る。」
読みようによっては(というか素直に読めば)、釈尊を揶揄しているように見える文句だ。「羊頭狗肉」は釈尊に対して看板倒れを皮肉る言葉として出てくる。
公案は、悟りへと導くためのものであって特定の正解があるわけではないだろうから解釈しても意味のないことかもしれないが、上に引いた西村恵信による現代語訳も一つの解釈である。
私はとりあえずこう読んでみた。
「黄面の瞿曇」すなわち金色の釈尊が「傍若無人」であるのは、天上天下唯我独尊であるから、別におかしなことではない。
「良を圧して賤と為し」というのも、釈尊は良家の子女(善男善女)をして出家させ、ボロをまとわせたわけだから、間違いではない。
こう読んでみると、無門の言葉は口調は乱暴だが、事実を曲げているわけではない。この文脈で「羊頭を懸げて狗肉を売る」が出てくる。
さて、どう受け取るか。
「花を拈じて衆に示す」が羊頭で、「正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門」が狗肉か?
それとも「正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門」が羊頭か?
これはありそうだが、だとすると、迦葉尊者の法統に連なると自称する禅僧はみな無門をはじめ狗肉を有り難がっているということになるのだろうか?
どうもそうでもないような気もする。
そもそも羊頭がよいもので、狗肉が劣るもの、とは限らないのではないか。
そうすると無門の言う「そもそも正法眼蔵というようなものが伝達できるとすれば、お釈迦様は一般大衆を誑かしたことになる。また伝達できるものでないとすれば、どうして迦葉尊者だけに伝授を許されたのであろうか」がやはり手がかりになるのだろうか?
しばらく考えたけれどもよくわからなかった。これぞ羊頭狗肉か。