アリストテレスの知慮2

賢慮と訳されることもある知慮(フロネーシス)は、他の知性(技術(テクネー)・学(エピステーメー)・智慧(ソフィア)・直知(ヌース))との対比によって、いろいろな定義もなされているので、それらを片端から抽出して再構成的に理解するということも考えてはみたが、試験前の学生ではあるまいし、あまりうまいやり方とも思えない。
アリストテレスは知慮ある人の具体例として、ペリクレスを挙げている(引用は『ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)』から)。

彼らは、すなわち、彼ら自身にとっての、またひとびとにとっての、もろもろの善の何たるかを認識する能力のあるひとびとなのだから−−。「家政・経済にたけたひとびと(オイコノミコイ)だとか「国政にたけたひとびと」(ポリティコイ)だとかわれわれの考えるのも、まさしくかくのごときひとびとにほかならない。

ペリクレスの事績について詳しくはないが、アリストテレスの文章からは優れた政治家であったろうことはうかがい知れるし、そしてそのことから知慮のイメージも湧いてくる。経済・政治上の問題解決にあたって、万事に配慮が行き届くような老練な政治家の、経験に裏付けられた世間知のようなはたらきのことを指して、知慮というのだろう。
老練とか経験に裏付けられたというのは、アリストテレス自身が次のように言うからである。

年少で幾何学者や数学者となり、そういった方面の智者となる者はある。しかし年少で「知慮あるひと」となる者はないように思われる。このことの因はというに、知慮はやはり個別(タ・カタ・ヘカスタ)にもかかわるが、個別が知られるのは経験に基づく。年少者は、だが、経験に富んでいない。久しい歳月が経験をつくりだすのだからである。

ここを読むと若かった私が「知慮」をまったく無視していたのもよくわかるような気がする。経験知・世間知としての知慮を強調すると、アリストテレス倫理学は若者には無縁のものとなるからだ。もちろんいたずらに歳ばかり重ねても、今にもつぶれそうな零細自営業者にだって無縁である。ペリクレスとまではいかないまでも、自らの属する共同体の代議員になるかならぬかというくらいでないと、ほとんど意味がない。
それはともあれ、アリストテレスの云う徳としての知慮とは、理想というよりは現実の政治家の卓越した能力をモデルに考えられたものとして受けとめた方が、わかった気になりやすいように思われる(善し悪しは別として)。
眠くなったので、今夜はここら辺で。