ハンス・ヨーナスのグノーシス論5

まさかハイデガーで年を越すことになるとは思わなかった。
ハンス・ヨーナス『生命の哲学―有機体と自由 (叢書・ウニベルシタス)』第十一章「グノーシス主義実存主義ニヒリズム」の「古代と近代における反ノモス主義」と題された節の後半でヨーナスはハイデガー批判を始める。
グノーシス主義の特徴を、(ハイデガーの)実存主義と比較することを念頭に置いて描写していた前半は、グノーシス主義についての総復習的説明がなされながらなので、難しいなりに何とか読んでいたが、ハイデガーが出てくるとガクンとつっかえる。

ハイデガー『「ヒューマニズム」について』について

まず、ヨーナスはハイデガーの何を問題にしようとしているのか。

ここで、ハイデガーの議論を比較の俎上に載せることができるだろう。ハイデガーはその著『ヒューマニズムについて』において、理性的動物(animal rationale)という人間の古典的な定義に異議を唱えて、この定義は人間をアニマリタス、すなわち動物性のなかに置き、ある差異をつうじて特殊化しているにすぎず、その差異もまたあくまで動物という類の内部に属する特定の性質である、と述べている。これは人間をあまりに低く位置づけるものだ、というのがハイデガーの主張である。(ヨーナス、p401)

「というのがハイデガーの主張である」というのがヨーナスの主張である。これを確かめるために、学生時代に買った角川文庫版『ヒューマニズムについて』を引っ張り出したが、紙は焼けているは、活字は小さいは、書き込みはすごいはで読む気になれない。買いだしてきたのが、ちくま学芸文庫版。

専門家ならどうかは知らないが、素人には四〇台半ばも過ぎてハイデガーのおさらいは辛い。本文の二倍近くのページ数を割いた渡邉二郎先生による詳細な訳注と解説に助けられながらようやくの思いで読みすすめる。

最初のヒューマニズム、つまりローマのヒューマニズムも、そしてそれ以来現代に至るまでに現れたあらゆる種類のヒューマニズムも、人間の最も普遍的な「本質」を、自明なものとして前提している。人間は、アニマル・ラティオーナーレ〔理性的動物〕と見なされるわけである。この規定は、たんにギリシア語のゾーオン・ロゴン・エコン〔ロゴスヲ持ッタ生キモノ〕のラテン語訳であるにすぎぬのではなく、むしろ一つの形而上学的な解釈である。人間のこうした本質規定が誤りであるというわけではない。けれども、この本質規定は、形而上学によって制約されている。その形而上学の限界ばかりでなく、その形而上学の本質の由来が、ところが実は、『存在と時間』において、疑問視され問われるのに−値するものとなったのである。(ハイデガー『「ヒューマニズム」について』p36)

このくだりには訳注(66)が付いていて、その訳注を見ると、「なお、実際、『存在と時間』では、「アニマル・ラティオーナーレ」、「ゾーオン・ロゴン・エコン」としての人間規定への批判が、明確に発言されている(SZ48,165)」とある。そこでさっそく指示された箇所を見てみると、「現存在の存在をたずねる原理的な問いを妨げ、あるいはそらせてしまうもの」として「古代的=キリスト教人間学」が挙げられ、その要素の一つとして「理性的動物」が槍玉に挙がっている。

一、人間の定義としては、animal rationale(「理性的動物」)という意味で解釈されたゾーオン・ロゴン・エコン、そしてこの定義におけるゾーオンは、客体的に存在し出現するものという意味に解されている。ロゴンの方は、それがそなえている一段と高級な資質で、それの存在様相は、このように合成された存在様相とおなじく不明のままである。(ハイデガー存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)』p121、引用にあたってギリシア文字はカタカナに置きかえた)

こうした人間の定義は、「人々が従来、「人間」という存在者の本質を規定するのに急で、それの存在への問いが忘却されてきたということ、そしてこの存在はむしろ「当たり前のこと」として、ほかの被造物の客体的存在とおなじ意味で把握されてきたということを告げている」(p122)のだそうだ。
もう一つの箇所では次のように言っている。

このギリシア人が、前=哲学的な現存在解釈においても、哲学的な現存在解釈においても、人間の本質をゾーオン・ロゴン・エコンと規定していたのは、偶然であったのであろうか。この人間の定義は、後世においてanimal rationale(理性的生物)という意味で解釈されたが、この解釈は「誤解」ではないが、現存在のこの定義がそこから汲みとられた現象的地盤を蔽いかくすものである。(ハイデガー存在と時間』p353-p354)

「この解釈は「誤解」ではないが」という言い回しは、『「ヒューマニズム」について』での「人間のこうした本質規定が誤りであるというわけではない」に通じる表現だろう。この点についてハイデガーの意見は一貫しているものと思われる。また、ヨーナスが注でハイデガーを非難しながら書き付けた「「動物」という用語の意味の曖昧さによる言葉遊びは、議論を手軽にするのには役立っているが、基盤の変更を覆い隠している」という文は、ハイデガーの「現存在のこの定義がそこから汲みとられた現象的地盤を蔽いかくすものである」という表現に対する当てつけでもあるのだろう。
『「ヒューマニズム」について』に戻ろう。
人間は理性的動物であるという古来からの定義に対して、「果たして、そもそも人間の本質は、原初的に、そしていっさいをあらかじめ決定するような仕方で、アニマリタース(動物性)の次元のうちに存するのかどうか」と問う。理性的動物という定義の仕方は、さまざまな生物の一種についての特徴を定義するものであって、人間の人間性を定義するものではない、というのがハイデガーの主張である。

すなわち、そのようにすれば、人間は、決定的に、アニマリタース(動物性)という本質領域のなかへと放逐されたままにとどまるということ、しかも、たとえその際世間のひとが、人間を動物と等置せず、むしろ人間にはある種差が属することを認めるような場合であっても、やはりそうであるということ、これである。世間のひとは、原理においては、つねに、ホモー・アニマーリス〔動物的人間・アニマヲモッテ活動スル人間〕というものを考えているのであり、たとえその際に、アニマ〔呼吸シテ生キテイル低次ノ魂〕が、アニムス・シヴェ・メンス〔思考シテ活動スル高次の魂・スナワチ・精神〕として、そしてこのメンス〔精神〕が、のちには、主観として、人格として、精神(ガイスト)として、定立されるようになった場合でも、世間のひとはそのように考えているのである。このように定立することが、形而上学のやり方なのである。けれども、そのことによっては、人間の本質は、あまりにも軽視されることになり、それの由来においては思索されないことになる。(ハイデガー『「ヒューマニズム」について』p39)

このくだりが、ヨーナスの言うハイデガーの主張、すなわち「この定義は人間をアニマリタス、すなわち動物性のなかに置き、ある差異をつうじて特殊化しているにすぎず、その差異もまたあくまで動物という類の内部に属する特定の性質である、と述べている。これは人間をあまりに低く位置づけるものだ」に当たる点だろうと思う。
念のため、もう一カ所、関連しそうな文章を引いておく。

人間の身体は、動物的な有機体とは本質的に異なるものなのである。生物学主義の錯誤は、次のようなやり方によっても、まだ克服されてはいない。すなわち、世間のひとが、人間の身体的側面の上に魂を、また魂の上に精神を、また精神の上に実存的側面を、いわば階層を建て増しするかのようにいくら積み重ねても、そして、従来よりもいっそう大声を挙げて精神の重視をいくら説いても、そのあとではやはり結局、すべてを、生命の体験のなかへと逆戻りさせてしまい、こうしてあげくの果てには、警告的断言を発して、思索はその硬直した概念によって生命の流れを破壊し、存在の思索は実存を損なう、などと言う以上は、そうだからである。(ハイデガー『「ヒューマニズム」について』p42)

「すべてを、生命の体験のなかへと逆戻りさせてしまい、こうしてあげくの果てには、警告的断言を発して、思索はその硬直した概念によって生命の流れを破壊し…」というのは、ベルクソンを標的にしているのではないかと思われるのだけれども、脱線はやめておこう。
つまり、「階層を建て増しするかのように」積み重ねるやり方の第一歩が「理性的動物」だというわけだ。
どうやら「理性的動物」という人間の古来の定義についてのハイデガーの言い分は、ヨーナスが言うように「人間をあまりに低く位置づけるものだ」という点にあるのではなく、人間を「動物プラスα」として定義することは人間そのものを把握することにはならないのではないか、という問題提起に主眼があって、それはそれで検討にあたいすることであるように私には思われる。
しかし、一方で、ヨーナスが注(ヨーナス、p470)で指摘している「ギリシア的意味での「動物」(=ゾーオン)」についての「言葉の誤用」は、ヨーナスに一理がある。実際、『存在と時間』における「ゾーオン・ロゴン・エコン」の解釈では、ハイデガーはもっぱらロゴン=ロゴス-言葉に注目し(ハイデガー存在と時間』p354)、ゾーオンについてはとりたてて注意を払ってはいない。これはハイデガーの動物(生物)理解が、彼が仮想敵とした生物学主義におけるそれをモデルにしたことに由来し、その故の制約もあっただろうことを示唆しているのではないか、などとも思う。もっともハイデガーは、ベルクソンだけでなくユクスキュルも読んでいたはずなので単純な話ではないだろうが。
ここから、大脱線をしてみたい気もするが、当面の目的からはそれることになるので今は慎もう。

追記

中途半端なまま年を越すのもシャクなので、ヨーナスのハイデガー批判について簡単に補足しておきたい。
ハンス・ヨーナス『生命の哲学』第十一章「グノーシス主義実存主義ニヒリズム」の「古代と近代における反ノモス主義」と題された節は、ハイデガー人間性と動物性を峻別することで「人間の規定可能な「本性」すべてが拒絶されている」のだと指摘したあと、次のようにしめくくられる。

本質を超えて自らを自由に投企する実存というこの発想には、世界に属さないブネウマは魂を超えた否定的存在であるというグノーシス主義の理解といくらか類似したものが認められる。いかなる本性ももたないものはいかなる規範ももたない。自然的なものの秩序−−たとえば創造の秩序−−に属するもののみが、一つの本性をもつ。一つの全体が存在するところにのみ、法もまた存在する。グノーシス主義者の侮蔑的な理解においては、このことはコスモスという全体に属しているプシュケーには当てはまるが、いかなる秩序にも属さないプネウマティコス(精神的人間)は、法を超えており、善悪の彼岸にある。自らの「知」のもつ力によって彼自身が法なのである。(ヨーナス、p401)

「自らの「知」のもつ力によって彼自身が法」であるような「彼」とはハイデガーのことでもあろう。
ヨーナスのハイデガー批判の眼目は、このプネウマティコスの傍若無人さに向けられている。