『ドストエフスキーとカント』

いったい、何度カントに立ちかえったらよいのだろう。またもや不勉強のツケを払わなければならないらしい。

思想家は哲学の径をどこから出発してどこへ向かおうとも、カントと呼ばれる橋を通らなければならない。(ゴロソフケル、p60)

ドストエフスキー『悪霊』を読んだ感想をなんとかまとめようと思いながら、忙しさにまぎれて半年が過ぎてしまった。
私のような凡庸な読者には感想を言葉にしようとしても、何か手掛かりがないとうまくできそうにない。そこで学生時代に買ってあったドストエフスキー論をいくつかパラパラとめくっているうちに行き当たったのが、ゴロソフケル『ドストエフスキーとカント―『カラマーゾフの兄弟』を読む』。冒頭に引用したのはその一節である。
この本で扱われているのは、『悪霊』ではなく『カラマーゾフの兄弟』の方なのだが、イワン・カラマーゾフに焦点を当てているところから、『悪霊』を読むうえでも何がしか参考になるだろうと感じられた。
というのも、言うまでもないことだが、『悪霊』で活躍する憑かれた青年たち、スタブローギン、ピョートル、キリーロフ、シャートフらは、『罪と罰』のラスコーニコフや『カラマーゾフ』のイワンと同系列のキャラクターだとみなされることが多いからである。
さて、本書でゴロソフケルは、兄弟の父フョードル・カラマーゾフを殺したのは誰か、と問う。小説の読者なら、実行犯はスメルジャコフであり、教唆したのはイワンであることは周知のことだろう。もちろんゴロソフケルもそれは承知の上で、何が彼をそうさせたのか?を問うているのである。
本書は謎解きのスタイルで書かれているので、ここからはネタばれということになるが、ご容赦。
ゴロソフケルは、イワンに憑いた悪魔(イワンの分身)に着目する(この悪魔は「悪霊」とも言い換えられよう)。この悪魔の正体、というより、悪魔と自分自身に分裂してしまったイワンに象徴されているものは何か? それこそが父殺しの動機を構成する。
さて、途中は端折って、一気に結論まで行こう。イワンと悪魔の葛藤からゴロソフケルがあぶり出すのは、カント『純粋理性批判』におけるアンチノミーである。
フョードルが二人の息子、イワンとアリョーシャに「神はあるのか、ないのか?」と問いかける場面がある。
初めにイワンが答える。

「ありませんよ、神はありません」
「アリョーシカ、神はあるか?」
「神はあります」
「イワン、不死はあるのか、何かせめてほんの少しでもいいんだが?」
「不死もありません」
「全然か?」
「全然」
「つまりまったくの無か、それとも何かしらあるのか、なんだ。ことによると何かしらあるんじゃないかな? とにかく何もないってわけはあるまい!」
「まったくの無ですよ」
「アリョーシカ、不死はあるのか?」
「あります」
「神も不死もか?」
「神も不死もです。神のうちに不死もまた存するのです」(『カラマーゾフの兄弟新潮文庫より)

こうした問答に、ゴロソフケルは『純粋理性批判』の第二アンチノミーと第四アンチノミーの単純化された投影を見てとる。
また、イワンの系譜にある登場人物たち(『悪霊』のスタブローギン、ピョートル、キリーロフ、シャートフら、『罪と罰』のラスコーニコフ)に共通するニヒリスティックな心性を示す標語「すべては許される」も、第三アンチノミーに関係するとしている。
ゴロソフケルは、カントの四つのアンチノミーを微妙なバランスを保つ天秤棒に喩え、イワンはその両端、テーゼとアンチテーゼ(『カラマーゾフ』の章題で言えば「プロとコントラ」)の間をよろけながら往復しているという。冒頭に引用した文にある「思想家」とは第一義的にはイワンのことであり、彼は「カントと呼ばれる橋」を渡りそこねた挙げ句、スメルジャコフをして父を殺させ、自らは発狂してしまう、それは知性が必然的に陥る虚妄の悲劇だというのがゴロソフケルの見立てである。
ここには、中村雄二郎氏がドストエフスキー解釈にあたってヨーナスのグノーシス主義論を引きながら捉えようとしたことと、道具立ては違うが類似の問題意識がうかがえる。それは端的に言ってしまえばニヒリズムの問題であり、中村の表現を引けば「人間と思想のなかに否応なしに食い込んでくる〈悪魔性〉の自覚化」、ヨーナスの言葉で言えば「親和的なコスモスという理念の喪失」ということだろう。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20091121/1258816391
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20091122/1258893278
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20091126/1259226548
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20091203/1259837517
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20091227/1261843448
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