義父の沈黙

長崎新聞の記事から。
核廃絶「できない」4割、抑止論が壁 長崎新聞社被爆者アンケート
http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji/20100809/02.shtml
この記事の最後に以下のような記述があった。

今もケロイドに悩み「一度ノースリーブを着てみたい」と告白する記述もあった。

周囲の目なんてお気になさらずにお召しください、と申し上げたいところだが、そうもいかないのは被爆者二世の婿としては承知している。
私の義父(妻の父)は、長崎の被爆者である。身内のことだが、もう半世紀以上前のことなのであえて「歴史」というカテゴリーで記しておく。
義父は当時、熊本大学の前身であった理工系の学校の学生だったが、勤労動員で派遣された先が長崎の工場だった。
幸い義父は九死に一生を得たが、たまたま建物の外にいた学友は行方不明になったままだそうである。
爆風で半壊した工場から脱出した義父は、姿の見えなくなった学友たちを捜して長崎市街を歩き回ったそうだ。そのときに見聞した地獄絵図の有り様を、結婚の挨拶にうかがった私に訥々と話してくれた。
妻も義母も「お父さんが原爆の話をするのは初めて聞いた」と驚いていたが、後になってそれには理由があったと知った。
原爆の恐ろしさは、投下時の破壊力だけではない。生き残った人々も後遺症で長く苦しめられる。そして、原爆症を業病のごとくにみなして忌み嫌う人々の目にも苦しめられる。
義父は、被爆者であることを長く周囲に伏せて生きてきた。娘たちの結婚に差し障るだろうと思ったからだそうだ。これは義父の思い過ごしではなくて、実際に被爆者の子女たちのなかには縁談を断られたケースがあったのだという。
だから義父としては、自分が理由で娘たちの縁が遠のいたのではいたたまれないと感じたのに違いない。そこで下の娘の結婚が決まるまでは沈黙し続けた。私に話したのは、こいつなら逃げ出すことはあるまいと見抜いたからだろう。事実、義父が見定めたとおりになった。
妻と私が晴れて一緒になった後、義父は被爆者手帳を受け取り、かつてともに勤労動員され被爆した学友たちと被爆体験の証言を記録する冊子づくりに奔走した。その打ち込みようたるや堪えていたものが堰を切って溢れてきたような勢いで、その冊子が完成したあかつきには、地元の書店に置いてあるところを婿に見せようと私を連れて博多の書店をめぐったほどである。
その義父も今また沈黙している。近頃ではめっきり記憶力が衰えて、いわゆる呆けの症状になっている。見舞いに行っても私の顔もはっきりとはわからないらしい。
だが、「この本は俺と友達で作った」と誇らしげに語っていた義父のことを思い出すと、ぼんやりとした微笑をたたえてテレビを見ている今の義父の姿も、言いたいことは言った、忘れてはならないことは語り遺した、という人の安らぎのようなものとも感じられて、おそらくそれほど長くはないだろう老後を平穏に過ごせるよう、義理の息子としては祈りたい気持ちでいる。