日記

今日は台風が近づいているため職場に出ることはやめて、古書店で見つけたかつての恩師の本を読むなどして自宅で過ごした。昭和四十年初版の本だが、今読んでも古びていない。先見の明に脱帽する。
そこでふと、思い出したのだが、私が学生だった八十年代、「差異」という言葉は微妙な扱われ方をしていた。デリダエクリチュールと差異』もドゥルーズベルクソンの哲学』も既に邦訳があったし、丸山圭三郎氏の著作も評判を呼んでいたが、社会・政治系の分野では「差異の肯定は差別を容認することにつながる」という主張がなされたりもしていた。今では、差異の政治ということについても知られていると思うのだが、八十年代当時は、哲学や言語学の分野での「差異」という用語と、社会・政治系の分野での「差異」とのつながりがよくわからないまま、不毛な議論をしていたこともあった。
だからどうしたという話ではないのだけれども、視野を広げるよう心がけておかないといけないなと感じた次第である。