形見

この間の日曜日、引き出しの奥を引っかきまわしたら、一枚だけ彼女の映っている写真のネガが出てきたので現像してきた。
1992/10/12の日付。 約二十年前だ。
元夫氏の率いていたバンドのメンバーに囲まれ、バンドリーダーの妻として艶然とほほ笑むまだ若かった君。
思えばあの頃が君の人生にとって、短い夏の季節だったということになるのだろうか。
この写真が色あせするころには、僕もほどよくボケてきて、君の記憶も薄れていくことだろう。
それまでは、決して忘れまい。
台所で洗い物をしていたら、もうひとつ、形見の品が出てきた。
最後に会ったとき、「ニンニクの醤油漬けがとてもよくできたから、ぜひ奥方にも味わってもらいたい」と、ニンニク醤油を詰めてくれたプラスチックの容器。
これ、君の薬瓶だろう?
喘息のものか、鬱病のものか、自分の命が短いことを常に意識していた君は、いつも薬を手放さなかった。その名残が今、僕の手元にある。
長命の家系に生まれた僕は、寿命が尽きるまでにもう一度くらい引越しをするだろう。その時に失くしてしまうかもしれない。でも、失くしてしまうまでは大切に持っていることにする。
いろいろ考えたけれども、結局は忘れないでいることでいいのだという結論になった。
それを僕に教えてくれたのは、君が知ることのなかった大震災で、津波の被害をうけた僕の友人のまだ幼いお嬢さんだった。
どういうわけかほとんど報道されないのだけれども、友人の住む町の約半分の地域が津波で水没し、彼の娘さんの通っていた幼稚園も被災した。
新聞から引く。

 ■余震と雨
 2台のバスは順次園児を送り届ける途中だった。送迎待ちの子供が教室と園庭で遊んでいた。午後2時46分、立っていられないほど揺れた。
 「泣いたり、叫んだりする子もいた」(教員)。揺れが収まると、教員たちは園児をなだめ全員を園庭に集め、点呼を取った。迎えに来た保護者に園児を引き渡した。
 午後3時10分から15分、2台のバスが帰ってきた。途中、ブロック塀が倒れ、ひび割れた道もあった。余震もある。運転手と教員は、すぐにはバスを出せないと判断した。
 雨が降ってきた。気温は5度前後。余震で園舎への避難は危険と考えた教員は園児をバスに乗せた。大型バスに33人、小型バスに18人。町役場への避難を考えていた。
 午後3時半ごろ。「津波だーっ」。園舎増築の作業員が叫びながら走ってきた。津波は、園庭の北東側から流れ込んできた。

 ■大型バス
 教員1人が乗っていた大型バスに、さらに4人が飛び乗った。津波に押され、バスは園庭の門に当たり止まったが、浸水。教員がドアを開けて園児を次々に屋根に上げた。
 前方にいた女性教員は4月10日に園が実施した遺族への説明会でこう話した。「浸水で私も息ができるかできないか、子供たちもおぼれかけていた。何とか息ができるようにと(園児を)屋根の上に押し出したんですが、上れたのか流れていってしまったのか分かりません。(屋根に上がった後に)車外から手を入れてリュックがつかめた子が2人いたので引き上げました」
 別の女性教員は「子供たちは首だけ浮いている状態。茶色い水でいっぱいになって、子供の姿が見えなかった。もういないよね、いないでねという感じでした」と話した。
 水が引くのを待ち、園舎に残った教員らが流木や外したドアを使いバスとの間に架け橋を作り、園舎2階へと避難させた。だが、園児7人がいなかった。

 ■小型バス
 小型バスには、中曽順子さん(49)ら教員2人が飛び乗った。バスは、園外に流れ、南西約150メートルの民家に衝突して止まった。
 車内の足元まで浸水した。中曽さんらは、子供たち全員をバスの上に上げた。大声で叫び続けたが、救援がないまま暗くなった。中曽さんと一緒にいた女性教員が水に飛び込み民家の玄関が開いているのを見つけ、園児を1人ずつおんぶして2階に上がった。クローゼットから、ありったけの衣類や毛布を出し、園児にかぶせた。
 中曽さんと一緒だった女性教員は「2階に避難した時は18人全員意識がありました。数時間たってから、(園児)1人の意識がなくなり、順子先生もだんだん衰弱して亡くなった」と報告した。

 ■捜索
 長女結衣(ゆい)ちゃん(5)が園に通う橋元洋平さん(33)は午後8時過ぎ、携帯電話のディスプレーの明かりだけを頼りに、胸まで水につかりながら1時間かけて園にたどり着いた。2階に、園児と教員、住民ら50人近くがいた。娘の姿は見えない。「他の子供たちはどこにいる」。その場にいた教員に詰め寄った。そばにいた若いカップルが「小型バスが流れて行った。泣き声と『助けてー』という叫び声が聞こえた」と話した。園を飛び出した。
 「ふじ幼稚園の園児はいますかー」。暗闇の中を叫びながら進んだ。「こっちに園児がいます」。民家の2階から声が聞こえた。2階に上がり「結衣はいますか」と娘の名を告げた。いなかった。その場で崩れ落ちた。
 園児18人のうち、既に1人が息絶え、2人がぐったりしていた。「結衣を捜しに行きたかったが、大人は私以外に2人しかいなかった。女の子が結衣のように見えた」。女児の傍らに座り看病した。翌朝、自衛隊や保護者に救出された。

友人は、その日たまたま時間に余裕があって、地震の起きる直前にお嬢さんを幼稚園に迎えに行き、親子ともども九死に一生を得たわけだけれども、お嬢さんのお友達の何人かは津波に呑まれて亡くなった。
お母さまは、震災の日からしばらくたち、子どもたちの動揺の落ち着いた頃を見計らって、友達は死んだということ、もう会えないのだということを、娘にはっきりと伝えたのだそうだ。一つの見識だと僕は思う。
そのときはぼろぼろと涙を流し続けていたお嬢さんは、やがて亡くなった友達の似顔絵を描いて、そこに「いっしょにあそんでくれてありがとう。いつまでもともだち」と書きつけた。
その話を聞いて、ああ、それでいいんだ、僕もそうしよう、と思った。
「幼稚園児に教えられてりゃ世話はねえや」と君は悪戯っぽく笑うに違いない。「でも、それでいいんだ、そういうものなんだよね」とも肯くだろう。
一緒に遊んでくれてありがとう、君はいつまでも僕の友達だ。