『奥の細道』のかさね・続

先だって、「『奥の細道』のかさね」と題して松尾芭蕉奥の細道』から、かさねという名前が登場する場面を引き、次のようにメモしました。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20110506/1304690617

寛文十二年に起こった累ヶ淵伝説の元となった騒動はかなり早い時点で江戸にも伝わっただろうと思われるのですが、『死霊解脱物語聞書』刊行が元禄三年だし、うーん、本当に芭蕉曾良もしらなかったのかなあ? 

これについて、既に指摘している人がいたことをうかつにも忘れていました。
岩波文庫の『芭蕉 おくのほそ道―付・曾良旅日記、奥細道菅菰抄 (岩波文庫)』に併載されている『菅菰抄』です。
そこに「名をかさねと云」の注釈として、次のようにありました。

按ずるに、世に云、祐天上人の化度有し、鬼怒川の与右衛門が妻、かさねと云しは、或は此小姫の成長したる後か。大概時代相応にて、きぬ川も亦此あたり近し。

安永七年の時点で、このように思った人もいたわけです。
しかしながら、私は、この『菅菰抄』の注に異議があります。
『菅菰抄』は、芭蕉那須野で出会った、かさねという小姫が成長して、後に怨霊となり、祐天上人に教化されて往生を遂げる(だと面白いのにな)というように想像し、「大概時代相応にて、きぬ川も亦此あたり近し」と想像に蓋然性を与えようとしていますが、かなり無理があります。
芭蕉奥の細道の旅に出たのは元禄二年(1689)。
翌元禄三年に累騒動を描いたドキュメント『死霊解脱物語聞書』が刊行されていますが、実はそれ以前に、天和二年(1682)頃成立したと思われる『古今犬著聞集』に、累の怨霊を祐天上人が成仏させたとの記事があります。
そもそも、累騒動が起きたのは寛文十二年(1672)のことで、この年に与右衛門の一人娘・菊に、父の先妻に当たる累の霊が憑依して大騒ぎになるのですが、その累が与右衛門に殺されたのは、さらに遡って、『犬著聞集』によれば正保四年(1647)のことであって、元禄二年(1689)に生存していた小姫が、その四十年ほど前に殺されていたとはとうてい考えられません。
「大概時代相応」とはとても言えない。
また、場所についても、同じ鬼怒川流域でも、水海道界隈と、那須のあたりとでは、かなり距離があります。
案ずるに、『菅菰抄』の著者は累の事件にはあまり詳しくなかったのでしょう。『死霊解脱物語聞書』の刊行が元禄年間だったことから、元禄のころ、関東で起きた事件として認識して、そのイメージをかぶせてしまったというところでしょうか。もっとも私自身、かさねという小姫に芭蕉が出会ったのは水海道から遠くないあたりだったかと誤って記憶していたので、先人を笑えないことはもちろんですが。
ただ、芭蕉が書いているように「かさね」という名前が珍しいものだったとすれば、やはり、『奥の細道』と累伝説とのあいだに何らかの連絡があったのではないかと連想してしまうことは避けられないようには思うのです。

訂正

上記で、「元禄三年に累騒動を描いたドキュメント『死霊解脱物語聞書』が刊行」と書きましたが、ご専門の方にうかがったら、正徳二年刊と記したものもあるそうです。