教科書の知られざるゆがみ

宗教学者による教科書論である。

教科書の中の宗教――この奇妙な実態 (岩波新書)

教科書の中の宗教――この奇妙な実態 (岩波新書)

本書によれば、現行の高校公民科「倫理」の教科書は、「宗教に関する記述が中立的・客観的」ではなく「政教分離の原則を踏み越えて」おり、「宗教心の注入だけでなく、特定の宗教に関する不用意な価値判断、偏見・差別が随所にみられる」という。
大学で比較宗教学を講じる宗教学者が、なぜ教科書問題に取り組んだか。
著者によれば二つのきっかけがあった。第一は「世界の公教育で宗教はどのように教えられているか――学校教科書の比較研究」というテーマの共同研究に参加したことであり、その成果は『世界の宗教教科書』(大正大学出版会)や著者による『世界の教科書でよむ〈宗教〉』(ちくまプリマー新書)でうかがい知ることができる。第二には学習指導要領改訂に対応した高校「倫理」教科書の改訂作業に加わった経験である。
つまり著者は、宗教学という視角から教科書を問題にするのにうってつけのキャリアとポジションをもっていた。形式上は教育界の外の人だが、その問題提起は真剣に受けとめるにあたいするだろう。
〇六年の教育基本法改正にあたっての議論のなかでも、宗教的情操を公教育で教えるべきだとする立場と、それでは政教分離原則に反する立場とが激しく対立し、結局、改正法では旧法にあった「宗教に関する寛容の態度」と並んで「宗教に関する一般的な教養」を尊重するとの文言を付け加えるという玉虫色の結果となった。
しかし著者は「宗教教育の可否はよく議論されてきたが、実はどのような記述が政教分離に則ったもので、どうなるとそれに抵触するのか、推進派も反対派もわかっていなかったのではないか」、「そういった論争の前提の部分に、知られざるゆがみがある」と手厳しい。
それでは、その「知られざるゆがみ」とは何か。
本書によれば、高校「倫理」教科書の宗教記述をめぐる問題は大きく分けて二つある。
一つは「教科書が、意図的にではなく結果的に、特定の宗教的信仰を受け入れさせようとしてしまっている問題」。
もう一つは「教科書がある宗教を他の宗教より優れているとしたり、逆にある宗教に対して差別的な偏見を示している問題」である。
前者については1章「教科書が推進する宗教教育」と2章「なぜ宗派教育的なのか」で、後者については3章「教科書が内包する宗教差別」と4章「なぜ偏見・差別が見逃されてきたか」で論じ、さらに5章「海外の論争と試行錯誤」で教科書の国際比較研究から得られた視点を加え、6章「宗教を語りなおすために」で学校教育における宗教の扱い方について提言をしている。
教科書が特定の宗教を推奨しているとは次のようなことだ。
著者は大手教科書会社六社の教科書を検討して、そのいずれもが仏教やキリスト教を、私たちが見習うべき先哲の教えとして記述していることを例示する。つまり、「宗教に関する一般的な教養」を踏み越えて、ある種の道徳教育になってしまっていると指摘する。
さらに仏教の場合は悟り(瞑想)や修行よりも慈悲を、キリスト教の場合は裁きや律法よりも愛を強調することで、各宗教の特徴が恣意的に選ばれており、客観的な記述になっていないことも問題だとしている。
また、教科書が宗教を差別しているというのは、仏教やキリスト教に比べて、イスラム教やその外の宗教の扱いが小さいというのは予想されることだろうが、話はそこにとどまらない。「倫理教科書では、ユダヤ教ヒンドゥー教は、それぞれキリスト教と仏教の単なる準備段階という位置づけである」、これは前者を劣った民族宗教、後者を優れた世界宗教とする序列化だと著者はいう。世界に広まっているから優れた宗教というのは素朴な前提による安易な価値判断だと手厳しい。
さらに、日本仏教の場合でも、奈良・平安仏教よりも鎌倉仏教の方をより優れた(徹底した、進んだ、日本独自の)ものとする勝利主義史観が見てとれるとしている。
いわれてみれば思い当たることばかり。
薄々感じていたことでもあったので、目から鱗が落ちるというほどではなかったが、大切な指摘だと思った。