今年の10冊(2011年)、あるいは、おフランス特集

このブログでは、古代中国思想やドイツ哲学をよく取り上げるので、もしかすると、私のことを中国びいきでドイツびいきと思われる方もいるかもしれないが、実はどちらでもない。
おフランスびいきなんである。
今年読んだ本で、印象に残ったものを拾い出してみたら、おフランスがらみのものが多かったので、今年は思い切っておフランス特集にしてみた。
おフランスといえば文学であり、今年はヴァレリーの新訳がドカンと出たりしたけれど、事情があって文学にはふれない。

1.メルロ=ポンティ『知覚の哲学』

知覚の哲学: ラジオ講演1948年 (ちくま学芸文庫)

知覚の哲学: ラジオ講演1948年 (ちくま学芸文庫)

筆頭は文句なしにこれ。
本人によるメルロ哲学の『方法序説』といった趣向の一冊。
久しぶりにメルロ=ポンティを堪能した。
訳者による徹底した訳注にも学ぶところが多い。

2.ランシエール『無知な教師』

無知な教師 (叢書・ウニベルシタス)

無知な教師 (叢書・ウニベルシタス)

この本も面白かった。挑発的な題名だが「無知な教師」と言っても、最近の教師は勉強不足で生徒の質問にも満足に答えられないので研修を強化すべきだとか、教員採用のあり方を抜本的に見直すべきだとかいう話ではない。19 世紀フランスで活躍した教育者ジョゼフ・ジャコト(1770-1840)という人物の風変わりな教育法と教育思想を、現代フランスの知識人ランシエールが知性の平等、知性の解放という視点から読み解いた書物。
 本書の主人公ジャコトはフランス・ディジョンで生まれ、修辞学を教えながら弁護士をめざしていたが、フランス革命が勃発すると革命軍に砲兵として参加。当時まだ二十代の青年だったが、革命政権下で弾薬局教官、理工科学校の校長代理などをつとめた。その後、ディジョンに戻って数学、古典、法学などの教師をしていたが、王政復古(ブルボン第二復古王政)によりオランダに亡命し、1818 年、ルーヴェン(ルーヴァン)大学(現在はベルギーにある)でフランス文学の教師となった。
 こうしてオランダの学生にフランス文学を教えることになったジャコトだが、その教育活動には大きな問題があった。彼はオランダ語がまったくできなかった、まさに「無知な教師」だったのである。学生の方もほとんどの者がフランス語を解さない。つまり、教師と学生の間に共通の意思疎通の手段がなかった。この状況でどうやって教育ができるのか。困ったジャコトは、『テレマックの冒険』(フェヌロン作、ギリシアの古典から題材をとった風刺物語)の対訳本を教材として学生に与え、訳文を参照しながらフランス語原文を暗記するように、「学生たちが第一巻の半分まできたとき、暗記したことは絶えず復唱しなければならないが、残り半分は物語ることができるように読むだけでいい」と通訳を介して指示した。そして「自分たちが読みとったものすべてについて考えるところをフランス語で書くように言った」。学生は語彙も文法も説明されていない。無謀な試みだったが、驚くべきことに学生たちは優れた答案を提出した。この経験からジャコトは「知らないことを教える」という、一見とんでもない教育法を考え出し、語学以外の教科でも実験したのである。学校関係者はジャコトを狂人扱いした。
 ふつう教育とは、知識をもつ教師が、知識をもたない生徒に説明する、という図式でイメージされる。しかしジャコトは、知識の説明は教育ではなく「愚鈍化」であると断じる。知性は平等であるのに、教師は自らを知的に優れているものとして、生徒を知性の劣ったものと位置づける。知性の優劣が先にあるのではなく、説明という行為が優劣を作り出す、すなわち「民衆を愚鈍化しているのは教育の欠如ではなく、民衆の知性は劣っているという思い込みである」。つまりジャコトは「知性」という言葉を知識ではなく、学ぶ力としてとらえている。こうしてみると「知らないことを教える」というジャコト式学習・教育法は、必ずしも単に奇抜な発想とはいえない。それは「すべての学習・教育法のなかで最も古いものであり、個人が説明を受ける手立てのない何らかの知識を身につけることを必要とするようなあらゆる状況で、日々その正しさを立証されつづけているのだから」。
 実際、ランシエールが紹介するジャコトの授業記録を読むと怪しげなことはやっていない。生徒はそれぞれの課題にあった教材を選び、集中して取り組む。教師が行うのは、生徒が教材を注意深く観察し、自分が何を理解したのかを自ら説明するように根気よく促すことである。「君が見たのはたしかにそれですか。それについてどう考えますか」。
 訳文は平易で、注意深く読めばわからないところはない(まさにジャコト式!)。教育史のなかに埋もれていた人物の事績を発掘した快著。

3.ドミニック・ルクール『カンギレム』

カンギレム ─ 生を問う哲学者の全貌 (文庫クセジュ960)

カンギレム ─ 生を問う哲学者の全貌 (文庫クセジュ960)

直弟子ルクールによるフランスの科学史家カンギレムの評伝。
これまた面白かった。

4.重田園江『ミシェル・フーコー

ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む (ちくま新書)

ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む (ちくま新書)

傑作。フランスの思想家ミシェル・フーコーの著作『監獄の誕生』は、監視と処罰によって規律に従順な人間をつくり出すシステムを分析した名著として名高い。しかし著者は『監獄の誕生』は「近代の規律について解説した本」ではない、と叫ぶ。もっとも「叫ぶ」というのは大げさなレトリックのように感じられるかもしれないが、本書全体を読みすすめていけば、著者のフーコーへの愛情が尋常なものではないことに気づき、いたるところで、フーコーってこんなに面白くてすごいものなんだと著者が叫んでいるような印象を受ける。フーコーにかける著者の意気込みが活字からほとばしるような、それほど気合のこもった本なのである。
気合いがこもっていると言っても、勢いにまかせて書き飛ばしたようないいかげんな内容ではない。『監獄の誕生』を中心にフーコーの主要著作をていねいに読み解いた成果を、近代社会の原理をどう理解するかという視点から、フーコーを読んだことのない人にも、読みかけたけれどあまりの難しさに投げ出してしまった人にもわかりやすく説明してくれる良書。その意味ではよくできた入門書ではあるが、フーコーの思想を私たちがどう受けとめ活かしていくかにまで踏み込んでおり、単なる解説書の域をはるかに踏み越えている点で独創的な著作と評しても過言ではない。ホラー映画やSМプレイのようなお茶目な例に混じって「危険と非常事態を尺度として日常を測り評価するのは危険だ」という指摘など、現代の思想状況に対する鋭い警句にドキリとさせられる。

5.ナンシー『限りある思考』

限りある思考 (叢書・ウニベルシタス)

限りある思考 (叢書・ウニベルシタス)

全体にハイデガーへの言及が多いが、とくに面白かったのはバタイユ論とランボー論。

6.デュピュイ『ツナミの小形而上学

ツナミの小形而上学

ツナミの小形而上学

最初、なんだ災害便乗本かとバカにしていたが、訳書刊行のタイミングこそ災害便乗であるには違いないが、内容は違った。

7.菊谷和宏『「社会」の誕生 トクヴィルデュルケームベルクソンの社会思想史』

「社会」の誕生 トクヴィル、デュルケーム、ベルクソンの社会思想史 (講談社選書メチエ)

「社会」の誕生 トクヴィル、デュルケーム、ベルクソンの社会思想史 (講談社選書メチエ)

たいへん興味深いテーマに取り組んだ力作。デュルケムについてが説得力があり、ベルクソン論は若干浮いているような気もするが、トクヴィルとデュルケムだけではどこか息苦しさが残り、ベルクソンで羽目を外したかったのはよくわかる。

8.大橋完太郎『ディドロ唯物論

ディドロの唯物論

ディドロの唯物論

皮肉ではなく、さすが学術論文という代物。

9.酒井健シュルレアリスム

シュルレアリスム―終わりなき革命 (中公新書)

シュルレアリスム―終わりなき革命 (中公新書)

詩人・アンドレ・ブルトンを中心に描いた、文学から見たシュルレアリスム概説。

10.石井洋二郎『フランス的思考』

フランス的思考―野生の思考者たちの系譜 (中公新書)

フランス的思考―野生の思考者たちの系譜 (中公新書)

昨年末の刊行だが、読んだのは今年の初めなので、ここに加える。思えばこの本が私のフランス年の始まりだった。
ユートピア社会を構想したフーリエ、エゴイズムを徹底させたサド、方法的な錯乱によって「私とは一個の他者である」と喝破したランボーシュールレアリズムの提唱者ブルトン、エロティシズムに生と死の融合を見たバタイユ、テクストの快楽を追求したバルト。本書で描かれるこの六人の共通点は、デカルトに代表される普遍主義と合理主義に反逆した系譜に立つという点にある。普遍主義、合理主義、愛国主義といった異論を唱えにくい既成観念に対して、文学は逸脱や飛躍を恐れず、思考の可能性を追求することができる。デカルトですら、その思想を表現した『方法序説』は一種の自伝文学の形式で著されたのだ。文学にはまだ可能性が秘められていることを示唆する一冊。